小説

『愛しき瘤よ』御崎光(『こぶとりじいさん・瘤取り』)

 その日の夜から、恵子の左足首はポッコリと孤島のように腫れ上がった。瘤誕生の瞬間である。捻挫だった。一方で花瓶は「骨折」してしまった。「私は一体どこが恵まれてるというのか…。」恵子は自分の名前と正反対な不遇さを恨んだ。
 この出来事は社長夫妻の逆鱗に触れ、恵子は社長室に呼び出された。「あなた、どう責任とるつもりなの?」夫人は激怒した。経緯を問いただされた恵子は「女帝川田の仕業」とも言えず「自分の不注意」と言うしか成す術がなく、「社長夫人の花瓶を割ったドンくさい総務の社員」というレッテルを貼られた恵子は一気に孤立した。社長夫婦に逆らえないオジサマ方は、味方になってくれるはずもない。途端に恵子の周囲に誰も寄り付かなくなった。
 帰宅後に自分の足の瘤を見る度に、「してやったり」の川田の顔とあの時の無残な光景が頭に断続的に浮かび上がり、恵子を苦しめ続けた。しかし、数週間経った頃であっただろうか。10年以上思い出すことのなかった「瘤取り」のお爺さんのことがふと頭をよぎった。家族に相手にされず、顔の瘤を心の拠り所としていたあのお爺さん。職場で孤立し、足の瘤を見つめる私。お爺さんと自分がぴたりと重なった瞬間、足の瘤が急に愛おしくなってきた。何も言えない私と一緒に、痛みを抱えながら黙って頑張っている私の足の瘤。まるで運命共同体のよう。哀れみというのか、慈愛と言って良いのか、瘤に対して不思議な気持ちが芽生え始めた。
 その日を境に、毎晩足の瘤を見つめながら優しくさすり、「今日もお疲れさまでした。よく頑張ったね。」と瘤に語りかけることが恵子の日課となった。「ひょっとしてペットを飼っている人の気持ちは、こんな感じなのかもしれない。」アレルギー持ちのため犬や猫を飼った経験がない恵子は「家にペットが待っているから。」といそいそと帰宅し、「うちの○○ちゃんがね…。」とペットを我が子のようにかわいがり自慢をする人々を密かに軽蔑していたのだが、自分の「瘤」にすっかり情がわいている今は、何となく飼い主の気持ちがわかる気がする…そんな思いを夜な夜なめぐらせていた。
事件から3か月ほど経ったある日。痛みはだいぶ治まり、何となくぎこちなかった歩き姿もスムーズになっていたが、左足の瘤はポッコリと腫れたままであった。病院の先生からは「そのうちしぼんでくるから」と言われていたが、そんな気配は感じられない。相変わらず毎晩の日課は欠かさず続けていた。その日もいつものように帰宅してから瘤を労り、社内の様子、人間模様などを瘤に報告した。恵子は瘤にその日の出来事を伝えるようになっていた。まるで学校の出来事を家族に話す子どものように。「ああ、今日もお疲れさまでした。今日は佐々木さんが話しかけてくれたよ。あの人くらいかな、私とまともに口を聞いてくれるような人は。」「一度悩みを相談して見たほうが良いと思う。解決出来るかもしれない。 あなたは精一杯頑張ってるわよ、恵子さん。」
 どこからともなく聞こえてきた、聞き慣れない声。女性のようだが、ちょっと野太い感じだ。恵子は辺りを見回すが、人影は見当たらない。入り口に目をやる。カギはきちんとかかっている。「恵子さん、私よ、私。ほらほら、ここよ。左足…。」「えっ…?」

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