小説

『愛しき瘤よ』御崎光(『こぶとりじいさん・瘤取り』)

 名島恵子が太宰治の「瘤取り」という物語を読んだのは、中学生頃だっただろうか。主人公のお爺さんは、孤独な自分を慰めてくれる唯一の相手として顔の瘤を可愛がっていたという物語。恵子は民話の「こぶとりじいさん」よりも太宰の解釈の方が好きで、何度も読んではクスリと笑ったのを憶えている。しかし、まさかそのお爺さんに深く共感する日がくるとは夢にも思っていなかった。自分の足に瘤が出現するまでは。
 恵子の左足首に瘤が現われてから、約4ヶ月になる。職場で段ボールを抱えて歩行中にバランスを崩し、左足首を捻ってしまったためだ。「自らの不注意」が原因だった…というのは表向きで、本当は「女帝」から突き飛ばされていた。いわゆる職場いじめである。「女帝」とは総務部の局、川田良子のことだ。
 高校卒業後に入社し、もうすぐ50代に突入する川田は「良子とは罪深い名前だ。名付けた親が泣くに違いない。あいつは悪子だろう。」と職場スタッフから囁かれるほど悪名高い人物である。2回は離婚しているとか、ずっと独身だとか、その辺の過去はベールに包まれている。同じ部署の「大人しい女子社員」に狙いを定めては、いびり倒すのが常だ。会社役員と遠戚らしく、上司も現状を知りつつもだんまりを決め込んでいる。彼女が「優秀な」ベテラン社員であればまだ救いがあるのだが、残念ながら彼女の才能は社員イビリのみであった。
 一方の恵子は中途採用で2年前に現在の印刷会社へ就職している。色白でやせ型、見るからに地味で大人しそう、しかもまだ20代と若い恵子に、川田は初めから目をつけていたのだろう。入社早々川田は恵子にそっと忍び寄り、作りこんだ微笑を浮かべながら「名島さん、よろしくね。わからないことはいつでも私に聞いてちょうだいね。」と握手を求めてきた。川田の生暖かい手の温もりと不気味な笑みは2年経った今でも恵子の脳裏に焼き付いており、思い出すたびに背筋がゾクリとする。
 入社直後から、川田は恵子の教育係を自ら買って出た。「ほら名島さん、もう少しスピードアップ!」「はい。」「この手順、しっかり押さえてね。」「…はい。」予想通りモタモタと業務を行い、何を言っても口答えせず従順な態度を見せる恵子に、川田はご満悦の様子であった。しかし誤算があった。恵子は瞬発力に欠けるものの、コツコツと努力を積み重ねていく「うさぎとかめのかめタイプ」。その生真面目さと健気さが中年男性社員に好印象を与えていたようで、周囲のオジサマ方が次第に「名島さん、無理しないで頑張ってね。」「この前の書類、すごく助かったよ。」等と恵子に優しい言葉をかけるようになってしまったのだ。その状況は川田の嫉妬心を燃え上がらせ、イビリ加減は一気に加速した。
恵子イビリのクライマックス、それが今回の「突き飛ばし事件」と言えるだろう。4か月前の3月半ば。建物の老朽化により新年度から近隣のビルへ移転することになり、社員一同引っ越し作業を行っていた時に事件は起こった。社長室担当となった総務部は、荷物を梱包し運び込んでいた。社長夫人は「バカラ夫人」と呼ばれるほどバカラのガラス製品をこよなく愛しており、社長室には置物だのランプだのと数々のコレクションが鎮座している。その中には夫婦がオークションで購入したというアンティークもの「オールドバカラ」の希少な花瓶も含まれており、夫人のお気に入りらしかった。恵子が花瓶入りの段ボールを抱えてエレベーターへ向かっていると、なんと背後からガラガラと台車を押しながら川田が突っ込んできたのである。恵子は「あっ」と思った瞬間倒れこみ、両手から離された段ボールはガシャンと不吉な音を立てて床へ着地した。「名島さあん!だいじょうぶう?」わざとらしく駆け寄る川田。慌てて段ボールを開けてみると、薄っぺらい紙切れ1枚に粗雑に包まれ、所々砕け散った痛々しい姿の花瓶。たしかこの梱包は川田が施したものだ。すべてを計算し尽していたとしか思えない。そしてギリギリと痛む恵子の左足首…。

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