小説

『愛しき瘤よ』御崎光(『こぶとりじいさん・瘤取り』)

 なんと声の主は、左足首の瘤であった。恵子は激しくうろたえた。夜に寝ている間に、誰かが足にスピーカーでも埋め込んだのであろうか、もしかして自分は既に死んでいて「あの世」に来てしまったのだろうかなどとわけのわからないことを想像し、混乱する恵子を尻目に瘤は喋り続けた。「毎日ひとりで思い悩んでいるから、心配して口をきいてしまったわ。黙っておこうかと思ったんだけど。あんなことがあって、よく仕事を続けられるわね。どうして辞めないの?あの川田とかいうオンナ、あなたの弱みにつけ込んでるじゃない。いくらだってあるわよ、他の働き口くらい。だいたい…。」瘤は怒り心頭の様子で、堰を切ったような調子で恵子を擁護し始めた。自分よりカッカとしている瘤の声を聞いていると恵子は妙に冷静になり、仕舞いには何だか可笑しくなってきて、ふっと笑みがこぼれた。「あら、私かおもしろいこと言った?」恵子は瘤に自分の思いを打ち明けた。毎日話しかけていたせいか、自分の胸の内を吐露することに何の抵抗も感じなかった。「私ね、前の職場でも人間関係が上手くいかなくて辞めてるの。前の職場ではね、私は学校を卒業したばかりで何もわからなくて、ほら、私要領が悪いでしょう。本当に出来の悪い新人だったの。先輩も耐えられなかったんだと思う。私も続けることが出来なかった。」「…そう。私はあなたの昔のことは知らないから。でも、今回はちょっと理不尽じゃない?」「たしかに前の状況とは違うよ。でも今すぐに辞めてしまったら、また同じようなことをずっと繰り返してしまう気がする。今回は持ちこたえて、ここで克服したいの。」瘤と恵子の間に、数秒の沈黙が流れた。「恵子さん、あなた見かけによらず芯があるのね。あなたの瘤になれて誇りに思うわ。ちゃんと考えているみたいだから、あなたを尊重したい。ただね、孤立しているのは心配なの。佐々木さんには話してみたら。今日話しかけてくれたんでしょう。あの人、何か知っているはずよ。同じ総務部なんだし。話せばわかってくれるはずよ。」
「佐々木さん」とは総務部の先輩で、恵子と同じように控えめで地味なタイプの人である。お互い内向的なこともあり、これまでも特別親しいわけではなかったのだが、今回の事件後も態度を変えることなく接してくれている数少ない人物だ。そう言われると、佐々木さんは口には出さないが、何となく恵子にちらりちらりと視線を向けて気にしてくれている気がしないでもない。そうだ、あの段ボールの梱包も、川田と一緒に行っていたはずだ。もしかしたら薄々川田の陰謀に気づいていたのかもしれない。当然、気づいたところであの川田に佐々木さんが物申せるわけがないのだが。「佐々木さんと親しくなれるチャンスかもしれない。私、思い切って話してみる。」恵子の声色は明るかった。「ねえ、瘤さんって呼んだらいいのかしら。ちょっと聞いてもいい?」「何?恵子さん。」「あなたはいずれ消えてしまうわよね。まさか瘤取りの話のように鬼が取ってしまわないわよね?私、もうちょっと見守って欲しいの、あなたに。こんな風に話はもう出来ないの?」再び沈黙が流れた。瘤の返事を待つ恵子の身体中に緊張が走る。「恵子さん、安心して。私はあなたを見届けてから消えるつもりなの。今日こうやってあなたと話をして、私は恵子さんを信じてこれからあとは黙って見てれば大丈夫だって思った。私が消えている時は、もう私の役目が終わった時。そう思ってちょうだい。」この言葉が、瘤からの最後のメッセージとなった。
 次の日からも、恵子は日課を続けた。膨れ上がっていた瘤はゆっくりと、心地良いスピードで、少しずつ小さくなってきている。もうあの日以来、瘤が声を発することは無かった。しかし、恵子の心の中に、ちょっぴり野太い声とあの時得られた「見守られている」という安心感は、今もなお生き続けている。

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