小説

『彼は昔の彼ならず』ノリ・ケンゾウ(『彼は昔の彼ならず』太宰治)

「ふべえじゃないよ、あんなに野球はうまかったのに、情けない」
「別にうまかなかったんだよ、井の中の蛙」
「ああそ」
「もうさ、まーちゃんが野球選手なった方がよかったんじゃねえの?」
 と、オサムが面白いと思って言った冗談に、マダムは一つも笑わない。

 オサムが高校を卒業する年のドラフト会議。オサムは某球団からドラフト二位指名を受けた。投手としても野手としても評価を受けていたオサムであったが、獲得した球団の意向は投手であった。サウスポーで切れの良いストレートを投げられる能力が期待されていたらしい。入団一年目からキャンプで一軍に帯同させられるなど、球団の期待値は高く、誰もが甲子園のスターの早い一軍デビューを心待ちにしていた。しかしながら初年度の一軍出場は無し。それでも二軍での登板数を着々と増やし、一軍昇格間際とコーチ陣から目されている最中、利き腕の左肩の故障でチャンスを逸する。しかも故障のせいで、持ち味だった美しいフォームから繰り出される切れ味抜群のストレートは見る影もなくなってしまう。
 その後、バッティングにも定評があったオサムは打者転向で再起を図る。しかしながら高校野球よりも数段レベルの高いプロ野球投手の球には目がついていかなかった。以降は二軍ですら全く成績が遺せない日々を送り続け、五年目を迎えようというところで、球団から戦力外通告を受けた。たったの四年、甲子園のスターの短すぎるプロ生活だった。

 戦力外を受けてからは、だいぶ時が経っていた。マダムとは、プロとしては落ち目の頃に結婚していた。二人の間に子供ができたことによる結婚であった。
「おーよし、よしよし。ていちゃん、よしよし」
 てい子と名付けられた娘が泣き止んで、あっぷあっぷ口を開けたり閉じたりして母マダムをぼんやり見つめている、その目の愛おしさ、オサムは横で見ていると可愛くてしかたなくて、自分の情けなさに薄暗い気持ちになる。横目で見るマダムにも、その薄暗さは伝わったのか、
「なに神妙な顔してるの。そんな暇あるならさっさと仕事探しなさいよ」
 と努めて明るい調子で言うので、
「なんだまーちゃん、シール貼りだって立派な仕事だろうが。一時間でこんなに貼れるんだから」
とオサムは反論しながらマダムの貼った山を指さす。
「それはあたしの貼ったやつでしょ」
 と言いながらも、マダムは少しだけ笑ってくれて、抱かれているてい子もきゃっきゃと笑い、それらはまるでささやかな幸せのようで、その小さな幸せが、オサムは終わらないでくれと思って、何度だってマダムの貼ったカードの山を、ほら、これ、すごいじゃない、と指さして笑った。

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