小説

『彼は昔の彼ならず』ノリ・ケンゾウ(『彼は昔の彼ならず』太宰治)

 カキーン、カキーン、とリズムよく金属バットが硬球を叩く音がグラウンドに響き渡る。とある高校野球部の練習風景の一幕。その中でも、ひときわ大きい音を打ち鳴らす選手がいる。エースピッチャーで四番バッターのオサムである。この夏の甲子園を沸かせて、後にプロ野球選手になる男である。投げては百四十キロ台後半のストレートに、九十キロ台にも届く緩いカーブがあり、その球速差で全国大会の並み居る打者を翻弄し、はたまたバッターボックスに立てば準決勝で敗れるまでに三本のホームランを打った。彼のその真っ白なユニフォーム姿は、多くの野球ファンの脳裏に深く刻まれている。

 でもそれもあれもこれもなにもかも、もう何年も前の話。

 現在はこう、ぺた、ぺた、そうこの音が、ぺた、ぺた、と延々に静かな部屋の中で響き渡る、ほらまた、ぺた、ぺた、と鳴り響いてる。ボールがカキーンと飛ぶ音ではなくて、ぺた、って音。その静かな部屋の中で向き合っている男女の男の方がもちろん、あのエースで四番だったオサムなのだが、今や見る影もないほど小さく、別に背が縮んだとか、体重がすごく減ったとかそういう話じゃないけれど、なぜだか小さく見える。それでその丸まった背中で、ぺた、ぺたっ、としてる。真向いに座る女は、妻のマダム。なんだか嘘みたいな名前だけど、本当らしい。マダムはオサムの高校生のときからの付き合いで、野球部のマネージャーをしていた。それでその二人がそんなにぺたぺたして一体何をしているかというと、それはやっぱりお金、お金を稼ごうとして、シールをぺたぺた、お菓子の箱やなんやに貼る内職をしている。けれど、こうやってシールをぺたぺたしてたって、大した金になるわけでもなく、金のないオサム一家は家賃をもう何か月も滞納している。とはいえ他に稼ぎ口もないので仕方なく、ぺた、ぺた、としていたら赤ん坊の泣き声がして、それは当然二人の子供であるから、二人のうちのどちらかがあやさなきゃならなくて、じゃあどっち、って二人が目配せし合うと、偉そうにもオサムが、首でくい、くい、とマダムを促して、その態度にマダムは舌打ちをする、ちっ、とやる。しかしオサムに赤ん坊をあやさせても下手くそだし頼りにならないから仕方がなく、不服そうにマダムは立ち上がり、よしよしよし、と声かけて赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊の後頭部の横からマダムが顔を出し、ねえ、とオサムに声かける。
「それ、何枚なのよ」
「ん、なにが?」
「なにがって、枚数よ」
「まいす……? あ、枚数ね」
「それ以外ないでしょ」
「あ、ごめ。いやね、これ、何枚だろ」
「とぼけないでよ。あたしの半分以下じゃない」
 言われてオサム、テーブルの上で山のように積まれたマダムがシールを貼った企業のメッセージカードを見て思わず、ふべえ、と声がでる。

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