小説

『彼は昔の彼ならず』ノリ・ケンゾウ(『彼は昔の彼ならず』太宰治)

 そう言われて、オサムは表情が固まってしまって、マダムの目を見れない。
「全部見てたんだもん」
「でもさ、あんなこと、おれにはもうできないんだよ」
「それも知ってる」
「まーちゃん幻滅したろ、おれがこんななっちゃって」
「うん」
「はは、そらそうだ」
「うん」
「おれのことは、もういいよ。まーちゃん美人だから、他にいくらでもいるや」
「うん」
「まーちゃんごめんよ」
 オサムが言った後、しばらく黙ったマダム。それから声を振り絞るように、
「……あほ。あほか。あほかあんたは」
 と掠れた声で言った。マダムの目が少し涙ぐんでいる。いつも毅然としてるマダムの目が潤んでいるのを見て怯んでしまい、オサムは返す言葉が出ない。
「あほ。あほ。野球とか、野球じゃないとか、うまいとかすごいとか、だめんなったとか、あたしはどうでもいいのよ」
 オサムはまだマダムの顔を見れないでいる。
「あたしはこの子が一番なの」
 とてい子を見ながら言ったきり、言葉に詰まってまた黙り込むマダムに、オサムがなんて答えようかとまごついている間に、またマダムが、
「その次にあんた、だからあたしらで生きてかないと、野球でもなんでも、野球じゃなくても、あたしらで、生きてかないと、だめでしょう……」
 そこまで言ってから、マダムは深く息を吸いこんで、いいから今はシールを貼りなさいよ、と元の毅然とした声で言った。無理にそうしているようだったけれど、オサムは、はい、はい、貼りますぼく、貼りますぼく、となぜか敬語で、震える声で、泣きながら、そしたら品物が涙で濡れて使い物にならなくなっちゃって、マダムにまた怒られ、怒られながら、これが終わったら、このぺた、ぺた、が終わったら、おれは仕事をする、ぺた、ぺた、でも、カキーン、カキーン、でもなくて、もっとあれ、しゃきっとね、スーツなんか着て、いや着てなくても、作業着だっていいんだけど、まああれね、大家さんには悪いけど、トライアウト受けるって建前で、仕事が見つかるまでは、見過ごしてもらって、なんて呟きながら、涙でにじんでしまう手元をじいーっと見て、シールをぺたぺた貼り続けた。

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