小説

『白い手』霜月透子(『人魚姫』)

 背負子を担いだ老女が道の途中で叫んでいる。たしか同じ町内の人だ。道に立ち止まったままこちらに向かってくる様子もないので、私もこの場で声を張った。
「こんにちはー。お久しぶりですー」
「えらい久しぶりだねえ。あんまし縁に立たんようにね。あんた、小さいとき、そっから落っこちたろ?」
 中学生は小さいうちに入るだろうかと思いながらも「ええ、そうですね。気をつけます」と答える。
「うんうん。気ぃつけて。ほんじゃねー」
 老女は手を振りつつ去っていく。
 再び海を見下ろすと、白い手はまだ揺れていた。

 人は言う。その無念の死を遂げた彼らが、水にむくんだ白い手を伸ばし、招くように、掴むように、うごめくのだと。その手に誘われた者は帰ってこないのだと。
 違う。そうではない。
 白い手は招くように揺れている。指先を軽く曲げ、前後に揺れる。多くの人にとって、それは人を呼ぶ仕草だ。しかし。
 先ほどの老女が振った手を思い出す。ほんじゃねーと言いながら、指先を軽く曲げ、前後に揺らした。私の祖母もそうだった。去り際に手を左右ではなく前後に振る。幼いころは近くに来いと呼ばれているのかと思い、走り寄っては笑われたものだ。
 海で揺れる白い手。あれもまたそうなのだろう。去れと言っている。この海は危ないから近寄るなと。自分たちと同じになるなと。

 海から風が吹き上がる。視界を遮る髪をかきあげると、目の前に一枚の布が舞っていた。紺色のスカーフ。ふいに風がやみ、伸ばした手にはらりと落ちた。
 私は潮風を胸一杯に吸い込んで、声の限り叫んだ。
「ありがとうございましたあー!」
 白い手は揺れながら波間に消え、風の歌だけがいつまでも聞こえていた。

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