小説

『イナバ君』御崎光(『不思議の国のアリス』)

 小学校5年生の頃、同じクラスにイナバ君という男の子がいた。「イナバ」は本名ではなくあだ名だ。本当の苗字は何だったか思い出せない。イナバ君は色白でちょっとぽっちゃりしていて、ある男子生徒が「因幡の白兎みたいだ。」と言ったのがきっかけで「イナバ君」と呼ばれるようになった。イナバ君は大人しくて、だいたいいつもニコニコしていて、休み時間はいつも一人で静かに本を読んだり絵を描いたりして過ごしていた。
 そんなイナバ君が、唯一自己主張をしたことがあった。学芸会の出し物を決める時だった。
 先生が皆に「何をやりたいですか?」と尋ねた時、イナバ君は周りをキョロキョロと見渡しながら控えめに手を挙げ、「不思議の国のアリスがやりたいです。」とか細い声で提案したのだ。そんな姿を初めて目にした私たちは一瞬ざわついた。先生も驚いた様子だった。すると「イナバ」の名づけ親であったショウヘイが「じゃあ、イナバ君が白兎役やりなよ。」とすかさず発言した。イナバ君は無言で頷いていたけれど、ちょっと悲しそうな、何か言いたげな表情だったことを私は子どもながらに覚えていた。でもそのあとはいつも通りニコニコとしていたし、自ら衣装のデザインを描いたりもしてくれて、満足している様子に見えた。あれは私の気のせいだったのだと言い聞かせていた。
 その時に主役のアリスを演じた生徒、それは私だ。小学校時代、自分で言うのも恥ずかしいのだが、私は「デキる女子」だった。快活で学級委員も務めていたし、勉強もスポーツもそつなく出来ていた。見た目も可愛かった。アリスのように「のびのびとしていて勇気のある女の子」だったように思う。一体どこで踏み外してしまったのだろう。
 イナバ君はアリスの衣装として、レモンイエローのワンピースを描いてくれた。絵本やアニメで見慣れていた水色ではなかったので、イナバ君に「黄色のアリスって珍しいね。」と伝えると「この色のほうがササモトさんに似合うと思ったから。」と答えてくれた。私はイナバ君の細やかに気遣いに驚き、同級生ながら尊敬の念を覚えた。イナバ君のお母さんは洋裁が趣味だったらしく、イナバ君デザインの衣装作りにずいぶんと尽力してくれた。イナバ親子共作、と言って良いだろう。出来上がったワンピースは、小学生の学芸会には勿体ないくらい上質なものだった。出来上がった衣装を着て鏡の前に立っていると、本当に不思議の国に行けるような気がして、嬉しくて仕方がなかった。好評を博した学芸会が終わった後も衣装は大切に保存しておいたのだが、高校1年生の時に自宅が水害に遭い、ワンピースもぐちゃぐちゃになって捨ててしまった。今思えば、私にとって「守り神」だったのかもしれない。ワンピースを失った翌年に私は失恋し、その翌年の大学受験は大失敗に終わった。
 そんな私にとって思い出のイナバ君が「アリスになっているらしい。」という噂を耳にしたのは20年後の同窓会だった。31歳になった私の元に、小学校の創立50周年記念同窓会の案内が届いた。今さら小学校の同窓会なんてと全く乗り気ではなかったのだが、当時の親友で「不思議の国のアリス」の脚本を手掛けたユミコから電話がかかってきた。「一緒に行こうよ。同窓会で良い出会いがあるかもよ。」ユミコはクラス1の文学少女だった。大学卒業後は出版社に勤め続けていて、3年前に一度結婚して離婚している。離婚直後は「もう結婚は2度とごめんだわ。」とぼやいていたが「そろそろ恋愛したくなった」らしい。「小学校の同窓会って言うけど、今回のは大規模な感じだから、集まるのは同級生だけじゃないでしょ?ネットワークは広げておかないとね。」とまるで婚活気分だ。そんな調子でユミコにそそのかされ、結局2人で参加することにした。

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