花がそこに在ると気づいたのはいつだったろう。
花の色を知ったのはいつだったろう。
儚く消え去るものに、さして役に立たぬものに、縋るような感動を覚えるようになったのは。
「花を纏いなさいよ」
小さな嵐のような女だった。
「―――は?」
「いちりんでいいから、花屋で買って帰りなさい」
同い年、もしくはひとつふたつ上(浪人していた場合)にも関わらず、初老の母が息子を諭すかのような口調だった。加えて言うと、その女の所属ゼミは中古文学だったか中世文学だったか……とにかく、その夜行われていた「近代文学ゼミ合同卒論提出慰労会」(と言う名の立食パーティー)には関係ないはずの学生だった。
「目も肩も手も足も、加えて心も重いでしょう? 何もわからず、ただ不安ばかりがあって、だからといって不幸でもないでしょう?」
のったりとした笑顔のまま、ただ口だけがくるくるとよく回った。
「そういうときは、花が、よく効くのよ」
そう言って右手にオレンジジュースを持ち、左手に赤ワインを持って、同時にグラスへ注ぎ入れた。
「一度はじめたら、なるべくきらさないで。続ければ、わかるから。…うわーお。うさんくさーい」
それからもう一度「うさんくさーい」と言ってけらけら笑いながら、人と人の間に紛れて消えた。
「……うさんくせぇー」
つられて呟き、握りしめていたぬるいビールを一口飲み下す。
目も肩も手も足も、加えて心も重いが、それがなんだ。卒論提出したばかりの学生なんて、みんなそうだろ。
そう言い切れない自分を知っていた。それくらいの聡さは持っていた。
けれど、それだけだった。その飲み会の帰り、花を買うようなことも、当然しなかった。
花を買う?
胸の内でつぶやき、薄く笑った。
この世で最も意味のない金の使い方のひとつだな。
色々なことをしたり、しなかったりしながら、俺は三十代を迎えた。
春の始まりのうすら寒い夜に一人で向かったのは、クライアントから強く勧められ、仕事のひとつとしてチケットを取ったピアノ演奏会だった。