小説

『ミス鼻子』中村一子(芥川龍之介『鼻』)

 彼女の名前はミス鼻子(はなこ)。
 本名はあるにはあるが、だいたいこれで通用する。
 鼻ちゃんと呼ばれることもあるが、それでも接頭語に「ミス」が付く。この「ミス」は敬称ではない。ミスった、鼻。という意味である。
 鼻子の鼻は顔の真ん中で5センチほど盛り上がり、それだけでも異常に大きいのに、その上、横に開いて、かつ鼻の穴も大きい。その太く、暗い鼻孔のトンネルの向こうは、心の闇へとつながっている。だが、鼻子はそんなものおくびにも出さず、今日も幼稚園の先生として働いている。
 大学を出て、この幼稚園に勤め始めて今年で丸4年。26歳の今まで、恋人と呼べる、いや、ボーイフレンドでさえいたためしがない。すべてこの顔の真ん中に胡坐をかいた大きな鼻のせいである。が、鼻子は「私の恋人は小さな天使たち」と幼稚園の子どもたちのことをそう呼んで、愛情を注いできた。
 4年前の4月。鼻子は5歳児の年長組の担任になって、20人余りの園児の前に立った。初めて鼻子を見た5歳児たちは皆、口をポカーンと開けて、鼻子の鼻に視線を止めたまま、微動だにしなかった。
「ブタちゃんだ!」
 男の子の1人がそう言うと、次々と「ブタちゃんだ~」「ブタちゃんだ~」の声が飛び交い、そのうち「ブタちゃーん」の大合唱になった。その声は園の庭を通り越して、近所の家まで響き渡った。それが「ブタが遁走している」という110番通報に変わって、園にパトカーが出動するというとんでもない事態に陥った。
 対応に出た園長は、まさか女性教諭の鼻がブタ並みでなんて、そんなパワハラ、人権無視した言い訳ができるわけもなく、「誤報です」の一点張りで謝った。

 恐る恐る鼻子の鼻を見ていた園児たちはそのうち、「ブタちゃんのおハナ」とか言って、鼻子の鼻を触ってくるようになった。鼻子は「触るんじゃなーい!」とどやしつけたかったが、それこそパワハラ、大人げないと笑って我慢したのだが、それが運の尽き。幼児というのは残酷な生き物であることを鼻子は知らな過ぎた。
 砂場でしゃがんで、子どもたちと砂遊びをしているときだった。男の子がいきなり鼻子の鼻の穴に、指を突っ込んできた。不意を突かれた鼻子は思わず尻もちをついた。近くにいた子たちはそれを見て、キャーキャーとはしゃいだ。その声につられて、鼻子の周りに子どもたちが集まってきた。1人の女の子がツツっと鼻子の前に寄ってきて、手を伸ばした。鼻子は「ああ、優しい子だ。私を起こしてあげようとしているのか」と微笑んで、その子を見た。するとその子は、鼻子の片方の鼻の穴に指を3本入れて、「ほら、3本入ったでしょ」と集まった子どもたちに得意げに言った。

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