小説

『人魚とダンス』戸田鳥(『人魚姫』)

「ほんの数日の契約でいいの。形式だけのものだからきみに迷惑はかけないわ。お願い」
 人魚のきらきら揺れる瞳に魅入られて、僕は深く考えることもなく頷いた。人魚は僕の住所氏名を覚えると、銛を手に海へ戻っていった。

 
 人間になった彼女が姿をあらわしたのはその二日後だった。
 夕刊を取りに出ると、彼女が家の前に立っていた。海から直行らしく、髪も服もしっとりと濡れている。例の銛一本だけを握りしめて、なぜか傷だらけだった。膝も腕も擦りむいて血が滲んでいる。額には砂がついていた。
「足で歩くって難しいわね」
 僕は生まれたての仔馬が立ち上がる映像を思い浮かべた。
「服、持ってたんですね」
 少々時代遅れではあったが、ごく普通のセーターにスカートだった。ワカメでも巻きつけて来られたらどうしようかと心配していたのだった。
「海で溺れた人間たちの着物をね、貯めてあるのよ」
 人魚は得意げに言うが、それはつまり……。
 その時、声を聞きつけたのか、父が玄関の戸を開けた。
「お客さん? おやまあ。海にでも落ちなさったの」
 探るような眼で見る父に、
「ええと、学校の先輩だよ」と咄嗟の嘘をついた。人魚はきょとんとしている。
「おやまあ裸足で。靴を流されちゃったのか。とにかくうちに上がってもらいな」
 民宿だからこういう時の手際はいい。風呂に連れていき、潮水を洗い流すように言ったが、風呂など知らない人魚には通じない。使い方を教えようと蛇口をひねると、悲鳴をあげて逃げた。水が熱いことによほど衝撃を受けたらしい。ひどく嫌がるので、仕方なく冷水シャワーを使わせた。着替えは僕の服から着られそうなものを見繕った。人魚は姿見にうつる自分の姿が嬉しいらしく、角度を変えたりポーズをとったりして、飽きずに見とれていた。
「海で荷物もなくしてしまったんだって? 遠慮はいらないから泊まっていきなさい」
 父はあっさりと承知してくれた。夏以外はほとんど客のない宿なのが幸いだった。彼女の名前を聞かれ、
「にん……人野さん」と同級生の名を借りる。
「ニンノさん。どうぞ遠慮なく」
 人魚はにっこりと父に微笑んで、
「ありがとうございます」と、思いがけなく人間のような挨拶をした。最初は死体と間違えたとは信じられないほど、思いがけない愛らしさだった。

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