小説

『バー・アカシヤ』海野権蔵(『奥の細道』)

 「こうして待ち続けることが辛くはないのですか?」
 一瞬、マダムの全身が燃え上がったように見えた。マダムの心の奥底によどむ何かが炎となって皮膚を突き抜け、ちりちりと着物の表面を舐めた。ややあってその火が治まると、マダムは夜空を見つめ、吸いさしの煙草をどうしたものかと考え込むように言った。
 「無明というほどの闇でなし。されど歳月などでは癒えぬ痛みもあるのよ」
 女はそれ以上何も言うことが出来ず、深々とおじぎをして店をあとにした。マダムが男と連れ立って歩くはずだった道に向かって。
 上流の垣で誰かが一つ溜息を吐くように、さらにまた一輪の椿が地面に向かいこぼれ落ちていった。

 女の後ろ姿を見送りながら、マダムは不思議なものだなと思った。
 古人の言う通り人の一生などまさに邯鄲の夢ように思える。確かなものと全身で受け止めていたはずの想いが、まるで水に描いた絵のように、それはいつの間にか時の流れとともに色を失い流れ去っていく。その流れの中では、生は哀しみに満ち溢れ、死は忘却に満ち溢れているかのように見えるが、それもまた幻と変わりない。
 今はただ夜を焦がれ朝を恨む。畢竟、人というものは、ただ生まれただ死んでいくのだ。一体いつまでそんなことを繰り返すのか。夢ばかり見て暮らせはしまいが、怒りも愚かさも貪ることもやめられぬ人間には、夢は唯一の救いなのかもしれぬ。生死の業を正面から見据えようが見知らぬふりをしようが、ただただ時は流れてゆくことに変わりはないのだから。
 親であれ子であれ愛する人であれ、そして今宵の空を巡った月ですら、花と春風の喩えの如く、全ての出会いは縁起というものなのであろう。かつてこの頬を流れ落ちた涙もまた同じこと。その流れにどれほど棹さそうとも、誰も何も寸毫たりとて留まれはしない。浮いては沈み渦に巻かれて全てのものは巡りゆく。それがゆえに、たとえその身が生きるという業火に灼かれ続けるのだとしても、やはり人は生という夢を見ずにはいられないのだ。
 夜空の黒が濃紺に変わり始め、月の光を追いかけるように椿の垣がふんわりと揺れた。大きくほころんだ一輪が満足げに拝むように下を向いてそっと垣を離れる。二人が去ったカウンターに頬杖をついて座っていたマダムの姿がそのカウンターごと薄れ始めた。闇の中では一つの塊にしか見えなかった木々が、ようやく訪れた朝もやの淡い輝きに一枝一葉に解きほぐされてゆく。ただただその生をまっとうした一輪の椿が、澄んだ空気の中を落ちて地面に辿り着いた時、朝露が葉に結ぶのと入れ代わるようにマダムの姿は消えていった。
 川は流れていた。

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