小説

『バー・アカシヤ』海野権蔵(『奥の細道』)

 しかし、嫁いだところで日々の暮らしは同じだった。なんとか二人の子供を産み、手から口への暮らしにも馴染が出来てきた頃のこと、夫と長男が水田へ水を汲み上げる水車に巻かれて水死した。田に水を入れる夜を徹しての水車踏みの最中、親子もろとも水の中へ引き込まれたらしい。あまりに突然のそんな悲嘆に暮れる間もなく季節が過ぎてゆき、その冬には下の子も風邪をこじらせて死んでしまった。何もかもがあっけなく女の上を通り過ぎていった。ほんとうに、なんてあっけないんだろうと女は思った。親元へ帰ろうかどうか悩んだが、ふとあることを思い出したのだった。
 「それはどんなこと?」興味深げにマダムが尋ねた。
 「私が七才の頃でしたか。生涯に一度だけ父親に連れられて大きな神社へお参りに行きました。山をいくつか越え、海沿いの道を歩きました」
 「その神社のことはほとんど覚えていないのですが、私が今でもはっきり覚えているのは、怖くなるほどの青い海の、繰り返し打ち寄せる白い波と、白装束の女性たちのことです」
 「私と父親が通りかかった時、女性たちは船に乗ろうとしていました。私はその時「私も船に乗りたい」と父親にせがみました。すると、いつもは温厚な父に似合わぬ激しい口調で「ダメだ」と一言放ち、私の手を強く引いてその場を離れようと急ぎ足になりました。私はそんな父親の剣幕に訳が分からず、黙って歩くしかありませんでした。でも、その夜の宿屋でお客さんが話しているのを聞いてしまったんです。あれは補陀落渡海という人たちで、あの舟に乗って浄土へ行くのだと」
 「浄土、、、」マダムが何かを思い出そうとするかのようにつぶやく。
 「一度しか見たことはありませんが、私は海が好きなんです。何度も何度も打ち寄せる波を見ていると、とても心が落ち着きました。そんな波に乗って浄土へ行けたらいいなと思います。田畑を耕す暮らしは嫌ではないんです。でも、あの旅で知ってしまった浄土に、どうしても行きたくて」
 「そう。もう一度やり直そうとは思わないの?」
 そうマダムが訊ねた時、山の端に隠れたはずの月の光が、木々の途切れた隙間から光の条となって川面を照らし出した。折よく、その一条の光の中を上流から流れてきた小さな白い花が通り過ぎてゆく。少女はそれを見つけると、いてもたってもいられなくなったように急いで暇乞いをした。
 「私、もう行かなくちゃ」そう言うと返事も待たずに飛び出していく。
 「お気をつけて」マダムが少女の背中に声をかける。女もぺこりと少女に向かって頭を下げた。
 「それで?」マダムは女にうながした。
 「私はもういいんです。浄土には苦しみも悲しみもないと聞いています。そんなことを村の人に言ったら笑われるだけだと思って、夜明けを待たずに出てきてしまいました」女は小さな体に確信を秘めているかのように言った。

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