小説

『われ太陽に傲岸ならん時』末永政和(『イカロスの墜落』)

 太陽よりも高く。イカロスの頭にあったのは、ただその一事のみだった。両腕には蝋で固めた翼が括り付けられ、海鳥のように自在に空を舞うことができる。高度を上げれば太陽の熱で蝋が溶けてしまうと脅されていたが、そんなはずがないことは分りきっている。実際、高度を上げれば上げるほど、風は冷たくなっていくではないか。
 眼下に見えていたダイダロスの背中は、今や豆粒ほどでしかない。勝手に離れるなとしきりに喚いていたが、どうせじきに降りてくるものと思い込んでいるのか、今は静かなものだ。あれほど偉大であった父の背中も、こうして遠目から見れば老いさらばえて頼りなく感じられる。
 日は中天から傾いて、じきに空を赤く染めるだろう。夜を迎えるまでにもっと高みを目指したい。天を目指して飛び続ければ、夜を迎えずにすむような気もする。雲を突き抜けたその先には何があるだろうか。果てしない青空が続くのか、星海が広がるのか、イカロスは確かめたかった。

 
 イカロスが迷宮に幽閉されたのは、ちょうど半年前のことだった。ミノス王の命によって捕らえられるべきは父のダイダロスだけのはずだったが、ともに工房にいたイカロスも口封じのために連れ去られた。王の秘密を知りすぎた、それが父の罪だった。何も知らぬイカロスをも巻き添えにするほど、その罪は重かったらしい。
 迷宮の深奥には、牛頭人身のミノタウロスが彷徨うと聞く。この化け物のために捧げられた若き生贄の亡骸が、そこかしこに散らばっている。だから不用意に出歩くわけにはいかない。ミノタウロスに出くわせば、決して生きては帰れないだろう。
 ラビュリントスと名付けられたこの迷宮がどれほどの広さなのか、どれほどの深さなのかをイカロスは知らない。ミノタウロスを永遠に封じるのが迷宮に与えられた役割であったが、こう広くてはミノタウロスがどこにいるかも定かではない。中で野垂れ死んでいたとしても誰も気づかないだろうし、万一逃げ出していたとしても分らない。迷宮があまりに巨大すぎるがゆえに、存在を確かめることも、非存在を確かめることも困難なのだ。
 それゆえ、王は定期的に他国から連れて来た生贄を捧げる。彼らの哀れな死をもって、化け物がまだ生きていることを確認するのであった。
 しかし迷宮の中に身を置いていれば、確かに異形の存在が幽鬼のようにあたりをうろついていることに気づくはずだ。時折迷宮の奥深くから、低いうなり声が響いてくることがある。地鳴りのように、部屋が揺れることもある。イカロスはそのたびに恐怖におののいたが、ダイダロスは一向気にしない。迷宮内の陋屋のような一室で、ダイダロスは寝食も忘れて作業に没頭している。迷宮で拾い集めた無数の羽と蝋とで、翼をつくっているのだ。二対の翼が出来上がったそのとき、イカロスはダイダロスとともにこの迷宮から脱出する手はずになっている。

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コメント
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    登場人物の気持ちや背景が手に取るようにわかり、物語にすっと入り込めました。また、構成もスマートで、勉強になります。ドキドキしながら読みました。(1月期優秀賞受賞者:羽賀加代子)

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    それぞれの持つ悲しさが秀逸。(1月期優秀賞受賞者:高橋惠利子)