小説

『ブラッド・チョコレート』和織(『カーミラ』)

ツギクルバナー

 そのとき私は、友人に約束をキャンセルされ、あと一時間早く連絡をくれれば家を出ずに済んだのにと、ため息をついた。するとクスッと笑う声が聞こえて、顔を上げた。目の前に、美しい少女が立っていた。白い光を宿した少女は、現実が消え去ったような錯覚を私に抱かせた。夢に見た夢のように美しく儚く、見つめ続けていないとすぐに視界からすり抜けてしまいそうで、目が離せなかった。
「残念なことがあったのね」
 擽るような声で、少女はささやいた。唇はスローモーションで、彼女の髪をなでる風が、まるでそれを愛おしんでいるようだった。私は何も言えないまま、多分口を半開きにして、その景色を目の中に収め続けた。
「私ね、チョコレートを作るのが趣味なの」
「・・・チョコレート?」
 私の首は、まるで錆びついたようにぎこちなく傾いた。これがこのときに可能な、精一杯のムーヴメントだった。
「それには特別なフレーヴァーが必要なの」
「・・・・・」
「あなた、暇なら手伝ってくれる?」
 少女は私の手に自分の細くて冷たい指を添えて、にっこりと笑った。それが、李杏(リアン)との出会いで、それから私はずっと、彼女の奴隷だ。実は、本来なら主導権はこちらにある筈なのだけれど、私はそんなものいらないし、自らを奴隷と定義づけているのがしっくりくる。なぜかって、李杏の傍にいられる時間が、私にとって何より価値のあるものだからだ。私たちはもうお互いに、お互いがいなければ生きて行けない。そういう関係を、まさかあんなに美しい人間と持つことができるなんて、想像したことすらなかった。
 では奴隷として何をするのかというと、週に一度、李杏の部屋で彼女と一緒にチョコレートを作るのだ。ただのチョコレートではなく、特別なフレーヴァーを持った、特別なチョコレート。なにせそれは、李杏が口にする唯一のものなのだから。
「少し多く抜きすぎちゃったかしら、大丈夫?ソファーで横になる?」
 注射器で私の血を抜いてから、李杏は優しくそう言って、私の頬に手を添える。キッチンには巨大なボウルいっぱいに溶かしたチョコレートと、それを流し込むための型が、所狭しと置かれている。
「うん、少し横になろうかな・・・。手伝わなくていいの?」
「もちろん大丈夫よ。さぁ、こっちへ」
 李杏は少女の顔で、母のように私の手を引く。ソファーに横になると、そっとブランケットをかけてくれた。
「ごめんね」
「いいの、気にしないで。いつもありがとう。ゆっくり眠って」

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