小説

『ヤドリバチ』末永政和(『芋虫』江戸川乱歩、『変身』カフカ)

ツギクルバナー

 ある朝、小暮進が夢から目覚めたとき、自分の体がベッドの上で金縛りにでもあったように動かないことに気づいた。安物のマットレスのせいで背中がこわばり痛むが、体を起こすことはおろか、寝返りをうつこともかなわない。全身に力が入らず、手足の筋肉が弛緩している。腹の上ではかけぶとんがずり落ちそうになって、かろうじてもちこたえていた。
 朝の気怠さは今に始まったことではないが、それにしたって体が動かないのは異常だ。芋虫にでもなった気分だった。
 雨だれの音が聞こえる。部屋の空気がいつもより重く感じられるのは湿気のせいだろうか。一方で体はふわふわと頼りなく、このままどこかへ消えてしまいそうだった。いっそこのまま眠り続けてしまおうかと思った。
 まぶたが開かないが、それはさして気にならなかった。もともと進には、まぶたを閉じたまま目を覚ます癖があった。夢から覚めたとてすぐに現実世界に引き込まれることもなく、暗がりのなかでその余韻に浸る。カーテンから洩れ入る光をまぶたの向こうに感じ、窓の向こうの物音に耳を澄まし、張り詰めた膀胱の加減から今が何時ごろなのかを推測する。十年以上も同じ部屋の同じベッドで同じことを繰り返していれば、その推測もほとんど外すことがない。今も彼は、あと5分ほどで目覚ましが鳴るだろうと考えていた。
 呼吸を落ち着けて、じっとそのときを待つ。枕元のスマートフォンが弱々しく鳴り出し、徐々にその勢いを増していく。スヌーズ機能で音量が最大にまで達したとき、進の左手は勝手に動いてスマートフォンの目覚まし機能を停止していた。
 ああ、ようやく動いた。ほっとしたのもつかの間、スマートフォンを握りしめたまま再び腕が硬直する。何をどうやっても体は動かなかった。
 兆候はあった。ここ一カ月ほど休みなしで働いており、会社に泊まり込むことも多かった。体のあちこちにガタが来ていた。耳鳴りがひどく、指先の震えも気になっていた。急に胸が苦しくなることも何度かあった。
 病院に行っておくべきだったと今更ながら思う。数日前に隣駅の心療内科を受診しに行ったはいいものの、ちょうど昼時で受け付けていなく、そのまま何となく気まずくて放置してあったのだ。縁がなかったのだとウヤムヤにしてしまったのは、何らかの結論を下されるのを恐れたからだろう。何かにすがりつきたいと念じながら、自分はまだ大丈夫なのだと思い込みたかった。
 遅刻することを会社に伝えておかなければいけない。そう思えば思うほど、体は頑なに動くことを拒んだ。時間だけが無為に過ぎて行く。あれから三十分、いや、一時間は経過しているだろう。時間にルーズな職場だから多少の遅刻でとやかく言われることはないが、とはいえこのままでいいはずもない。進は何度も体を起こそうと試みたが、そのたびに絶望的な気持を味わった。
 せめて誰かがそばにいてくれれば。家族でも恋人でも、友人でもいい。独りでいることがこんなに苦しいなんて、今まで思いもしなかった。このまま動けずに死んでいくとしたらあまりに惨めだ。
 今日は木曜だから、あと丸二日我慢すればいい。土曜になれば、恋人の茜が来るはずだった。連絡が取れないことを不審に思って、もっと早くにやってくるかもしれない。

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