いつものカフェがめずらしく混んでいた。しばらくうろうろした後、こんなところにあったのかという小さな喫茶店を見つけた。入り口は蔦で覆われて中の様子はほとんど見えない。かろうじてドアに掛けられた「営業中」の文字は読めた。
ドアを開けると、カラン、と時を忘れたような音がした。想像した以上にお客さんが入っていて、何人かが僕の方をちらりと見た。常連だけで固まっている店かな、と思ったが「いらっしゃい」と、これまた予想より若い店員さんが柔らかに迎えてくれた。席について店内を見回すと、常連らしい何名かがいるが声高に話したりはせず、誰もが慎ましい。なかなか良いお店を見つけたなと嬉しくなった。
店の青年がメニューを持ってきてくれた。メニューを開いてさらに嬉しくなった。メニューの名前が全て文学作品の名前になっていたからだ。コーヒーの欄だけでも、人間失格やら雪国やら、どんなものが出てくるのか想像がつかないものがいっぱいある。こういうとき、僕はお店の人に内容を聞かないことにしている。聞かずに頼んで、何が出てくるのか待つのが楽しいからだ。しかし、悩む。
僕が悩んでいる間に、ガラン、と時を破るようにドアが乱暴に開けられて一組の男女が入ってきた。年配の男性の方が、「なんだ妙に暗い店だなー」と大きな声で喋る。席に着く前に、男性の方が「コーヒー2つね」と、メニューを見ずに頼もうとしたが、女性がそこにかぶせていい加えた。
「『桜の木の下に』をお願いします」
「かしこまりました」
青年がにこやかな笑顔を浮かべて運んできた水を置いてうなずく。女性の方は何度か来たことがあるようだ。僕はこっそりと店内にもう一度目をやる。さっき、女性が「桜の木の下に」といったとき、なんだか妙な空気が客達の間を流れた気がした。気のせいか常連らしい店の客達があの男女に注目しているようだ。「桜の木の下に」がそんなに珍しいのだろうか。
「桜の木の下に、ってあれだろ、基次郎だ」男性が誰でも知っていることを自慢げに言う。「桜の下には死体が埋まっているとかいうやつ」
女性は男性に曖昧な微笑みを浮かべてみせたが何も言わなかった。
「お待たせしました」
青年が静かにコーヒを運んできた。僕の脇を通り過ぎた時にふわりととても良い香りがした。同じものを頼んでも良いかもしれない。
「お、うまいじゃないか」
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