小説

『桜の木の下には』藤野(『桜の樹の下には』)

 男性は気に入ったようで、ずず、と音を立ててコーヒーを啜りあげる。女性はカップの中をしばらく見つめてたあと、
「桜は死体を選ぶんでしょうか」とつぶやいた。
「はぁ、お前やっぱり変わってるなぁ。もらえりゃなんだって喜んで養分にするだろ」男性は大袈裟に顔をしかめてみせたあと、「おかわりくれる!君は?」と大きな声で注文した。女性は静かに首を横に振り、青年はゆっくりとうなづいた。まだ女性は一口もコーヒーを口にしていない。
 2杯目のコーヒーが出てきた時、女性が男性に何やらそっと耳に囁いた。初めはくすぐったそうに身をよじっていた男性が次第に大人しくなり、女性に促されるように立つとそのまま二人で店の奥に姿を消した。奥にも席があるのか、と不思議に思ったら、周りの客からため息とも感嘆ともつかない妙な気配を感じた。そのあとはそれまで漂っていた緊張はすでに溶けて、他の客達も読書やコーヒーを各自楽しんでいるようだ。彼らの間に流れた気配の正体がわからず
なんだかモヤモヤした気分のまま、僕は自分がまだ注文をしていないことに気づき、慌てて「雪国」を注文した。メニューの一番上にあり、値段も手ごろだったからだ。「桜の木の下に」はなんとなく注文しづらかった。
 しばらくして、女性が一人で戻ってきた。お会計をして出て行くようだ。連れの男性はまだ残っているのだろうか。青年が会計をつげたとき、彼女が青年に尋ねた。
「桜はお嫌いですか?」
「そういうわけではありませんが、どんなものを養分にして咲くかによるかもしれません」
 青年は穏やかな笑顔のまま、彼女から受け取った数枚のお札をレジにしまう。
「醜ければ醜いほどきっと美しい花を咲かせるんじゃないかしら」
 そう彼女はにこやかに言って店を出て行った。青年は変わらぬ微笑みをたたえたまま彼女を見送った。
 僕はもう一度、彼女が出てきた店の奥を見た。薄暗くて何があるのかわからない。トイレに立つふりをして奥まで行ってみようかと思ったとき、僕の「雪国」が運ばれてきた。丁寧に置かれたコーヒーカップの中で揺らめく琥珀色の液体に、かすかに歪んだ青年の笑顔がぼんやりと浮かんでいた。

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