小説

『光にゆく羽音』柿沼雅美 (『冬の蠅』梶井基次郎)

ツギクルバナー

 「誰か、僕のことを知りませんか?」 
 「誰か、誰か、僕のことを知りませんか?」
 そう言いながら渋谷の街を歩くと、30代くらいの女性が珍しいものを見るような目をしながら通り過ぎた。横からは、女子高生たちがスマホを僕に向けて、バツゲームが何かですかぁ、と楽しそうな顔をした。
 どこからか発売したばかりの音楽が流れていて、この世界には愛しかないと歌っていて、僕は、この世界には愛しかないわけない! と声を上げながら走った。
 誰か、誰かー、と叫びながら走りながら坂を降りると、自転車を押していた警察官がまるで待っていたかのように立ち止まって、横を駆け抜けようとした僕の腕を、まるでティッシュ配りのプロが指の間にティッシュをスッと入れるように、僕を腕の中に掴んで止めた。
 なに、君どうしたの? と警官が言い、僕は、あの、僕のことを知りませんか、と返した。警官は、意味が分からない、といった顔をしながらも、まぁまぁ、と僕をなだめるように肩をポンポンと叩き、すぐそばにある交番に連れて行った。
 ねずみ色の椅子に座らされて、カバンを開けるように言われ、言われるままそうした。警察官は黙ってそれを見ていて、そして僕の財布から学生証を出して、ゆっくり、高校2年生の高橋翔吾くんね、間違いないね、と言った。
 僕は、それはそうだと思って、はい、とこたえた。
 警察官は、これで僕のことを知りませんかっていう答えになると思うんだけど、と僕の顔を覗き込んだ。
 僕は、それはそうだと思って、はい、と答えた。
 警察官は、ほかになにか心配なこととか、不安なこととか、何か言っておきたいこととか、困ってることとか、あるかと聞いた。
 僕は、いいえ、と首を振った。
 バカなことをしてないで今日はもう帰りなさい、と警察官が言うので、なるほどそうかと思い、交番を出て、電車に乗った。いつもと同じ時間に乗るために20分以上ホームに立って過ごし、いつもと同じ4号車の左から三番目くらいの椅子の前に立った。
 昨日と違う広告が頭上にあって、戸惑った。あれ、女の子が脱毛をしている写真の広告がない、と思った。左隣にも右隣にも、後ろにもなかった。あれ、あれ、と思いながら息が上がってくるのが分かった。あと一駅で降りる駅だというのは分かっているのに、その広告がないだけで、電車が全然知らないところへ向かうような気がした。

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