小説

『窓辺の夫婦』草間小鳥子(『錦絵から出てきた女の人』)

ツギクルバナー

 はじめて一人暮らしをはじめたのは、大学進学のために上京してきた年の春だった。さびれた商店街の行き止まり、家と家の間に押しつぶされるように立つアパートの三階で、いちいちさびついた外階段を上り下りしなきゃいけないのがうっとおしく、おまけに窓のサッシはゆがんでいたけれど、ぼくは窓辺にサボテンなんぞ飾り、すっからかんの本棚に教科書や買ったけれども読んでいない文庫本を並べてみたりして、そこそこ満ち足りた日々を送っていた。
 「彼女」に気がついたきっかけは、ゴールデンウィークが終わってすぐにできた、ぼくの恋人とのささいなすれ違いだった。いつになく不機嫌で、メールも返さなければ電話も切られる。何も思い当たるふしのないぼくは、ついに恋人を待ち伏せして事情をたずねた。恋人は、ぼくの顔を見ずに冷たくつぶやいた。
 「浮気してるでしょ」
 青天の霹靂だった。ぼくんちは、父も祖父も、代々浮気なんてとてもできない小心者の家系だし、第一ぼくはその時恋人を愛していた。
 「昨日の夜、あなたの部屋の窓に、女の影がうつってたもの」
 驚いたのは、ぼくのほうだった。だって、その時ぼくは部屋でレポートの課題に追われていた。恋人の言葉を否定しながら、そういえば少し似たような出来事があったこと思い出した。入学して間もない頃、新しくできた友達に、「もしかしてお前、同棲してる?」ときかれたのだ。そいつが授業のノートを借りにぼくの部屋をたずねようとしたところ、窓辺に女の人の影がうつっていたから、邪魔しては行けないと気をつかい、引き返したのだそうだ。しかし、次の日も、窓に影が見えたから、これはもしや、とピンと来たらしい。
 「サボテンじゃないの?」
 と自室の窓辺を思い出しながら答えると、そいつはきっぱりと首を振った。間違いない、女だ、と。身に覚えのない疑いをかけられても困るので(当時ぼくは今の恋人に片思いをしていたので)、次の日の夜、その友人を部屋に招いた。彼は押し入れや洗面所を念入りに見回し、
 「おかしいなぁ、いま来る時にも、影が見えたんだがなぁ」
 と首を傾げながらノートを受け取り、帰って行ったのだった。ちなみに、ぼくが夜に部屋へ帰る時は、そんな影など見たこともない。
 恋人に身の潔白を証明するため、その夜最後の講義を終えたあと、ぼくと恋人は一緒に例の部屋へ帰ることにした。シャッターが降りっぱなしの商店街を抜け、そろって傾きかけたアパートの三階を見上げたけれど、窓から見えるのは部屋の暗がりばかりだ。

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