小説

『窓辺の夫婦』草間小鳥子(『錦絵から出てきた女の人』)

 「部屋の中が明るくないと、影は見えないから。先に入って、電気をつけてみて」
 うながされるまま、ギシギシときしむ外階段を上り、部屋の真ん中にぶらさがっている電灯のひもを手探りでひっぱった。ジジジ、と点滅しながら蛍光灯が点き、黄色っぽいあかりが部屋にあふれるとともに、外から、
 「あっ」
 という恋人の叫び声が聞こえた。
 あわてて駆け下りると、恋人が、肩を震わせながら、おそるおそる窓の方を指差していた。そちらへ目をやり、ぼくも思わず息をのんだ。
 三階の窓には、はっきりと、人の姿がうつっていたからだ。ゆがんだサッシの、ちょうど真上くらい。蛍光灯が薄暗いせいか、影のようにしか見えない。華奢な肩と、結わえた髪と、ほおずえをついて小首をかしげたその格好は、まぎれもなく女性のものだった。傍らには、育てているサボテンの影がちゃんとある。
 不気味に思ったぼくは、その夜は恋人の部屋に泊まった。恋人は夜どおし、
 「あなたの部屋、間違いない。出るのよ。きっと事故物件だわ。すぐに不動産屋に訴えるべきよ」
 と息巻き、よく効くといわれているお祓いをする神社を、いくつか教えてくれた。翌朝、おそるおそる部屋に戻ったぼくは、窓辺に誰もいないことを確認してから、田舎の両親の真似をして、玄関に塩を盛ってみた。
 幾日かは窓が気になって眠れない夜が続いたが、ぼくはおばけや幽霊のたぐいはそもそも信じていなかったし、越してきてから寒気がするとか、勝手に家具が動くとか、そういったこともなかった。だから、恋人から教わったお祓いの神社なんかはすぐに忘れてしまって、日常を取り戻した。しかし、電気をつけたまま出かけ、夜に帰ってきて部屋の窓を見上げると、影は相変わらずそこにあるのだった。せっかく手に入れた、はじめての自分だけの部屋なんだ。そう簡単に手放してたまるか。恋人が何かと理由を付けては部屋に来るのを拒む原因となったその影を、はじめはいまいましく思っていたものの、三人兄弟で一人暮らしの静けさに慣れていなかったぼくは、その正体が窓のシミだろうが目の錯覚だろうが本物の幽霊だろうが、かまわなくなっていた。それどころか、誰かが部屋でぼくの帰りを待っていてくれるような気持ちになり、心が安らいだ。
 ぼくは、電気をつけたまま外出するようになった。いっぽう、ほおずえをついた影はまるで、誰かの帰りを待っているように見えた。
 「間違ってもかかわりを持っちゃだめよ」
 と、手に数珠だかパワーストーンだかのブレスレットをつけた恋人が、学食でアイスコーヒーをすすりながら、真面目な顔で忠告する。窓からさしこむ昼の日ざしは明るく、テニスコートからは賑やかなかけ声が響いてくる。
 「この世のものでないものと会話をしたり、異世界のものを食べたりすると、あっち側に引き込まれて戻ってこられなくなるんだから」

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