あと三十分で今日が終わろうとしていた。
妻が外泊していることを除けば、特に代わり映えのしない一日だった。明日早くに出掛ける用事があって、僕は眠る支度を始めていた。歯を磨き、睡眠薬を飲み、暖房を消し、ベッドに入る。あとは明かりを消すだけだ。僕は決められた手順に従うように、電灯のリモコンを手に取った。
そのとき、電話が鳴った。
名前は表示されていなかった。僕は持っていたリモコンを置き、見覚えのない十一桁の数字をぼんやりと見つめた。
劇団の公演が終わってしばらく経っていたので、仕事の電話ではないはずだ。僕に当分仕事はなかった。早く眠りたかった。かといって今取ってしまえば済む電話を無視して、明日改めて掛け直すことも億劫だった。
僕はしばらくそのふたつを天秤にかけ、時計を一瞥して、電話を取った。
「もしもし」と女が言った。
「もしもし」と僕も言った。
「こんばんは」と女は言った。
「こんばんは」と僕も返した。
僕は女に対する態度を決めかねていた。声に聞き覚えはあった。だけどそれが誰かがわからない。
「今、電話しても平気だった?」
「大丈夫だよ」
「そう。よかった。ねえ、ところで、私が誰だかわかる?」
僕は黙った。けれどすぐに正直に答えることにした。
「実は電話番号が登録されてなかったみたいで。声に聞き覚えはあるんだけど」
「あるんだ」僕の言葉を遮るように女が言った。ひどく驚いているようだった。もしかしたら随分会っていない人なのかもしれない。僕はそう考えた。
「誰なの?」
僕は自分自身の警戒を解くように少し笑った。
「わかんないんだ」
「いまのところ」
「そう。ショックだな。忘れられた女なわけだ、私は」
「名前を聞いたらきっと思い出すと思うんだ」