さっきから、俺の視界に入っている奴。見たことは……、
――多分無い。無いのだろう。無いはずだ。
そいつは街灯の真下に立ち、俯いていた。俺の方を見ている様子は無い。だが、何故か、そいつは俺を待ち構えてそこにいるような感じがしてならない。色の禿げてしまったカーキ色の汚いコートに身を包み、フードを目深に被って、死体かと疑うくらい微動だにしない。
――刑事だろうか。
俺は一瞬だけ身構える。これまで刑事と鉢合わせしたことは何度かあったが、この寂れた郊外の田舎町に身を隠してから、一度も平穏な逃亡生活が壊されることはなかった。この町は俺にとって天国だ。駐在は田舎町に左遷されて然るべきような奴らばかりだし、住民は揃いも揃ってノホホンと世間知らずだから、誰も俺のことには気づかない。俺のことを匿っている女だって、俺が追われていることを知って匿っているわけではない。だが、そんな安穏たる空気を浴びすぎて、俺は少々麻痺していたのかもしれない。最近はこうしてナイトウォークなどを決め込み、柄にもなく冬の星空などを眺めていたのだ。
数秒だけ立ち止まって、俺はそのまま歩くことに決めた。踵を返そうかとも考えたが、少し考えてみれば、あいつが刑事だとは考えにくい。俺のことを逮捕しようと待ち構えているのなら、あんな目立つ所にはいないだろうし、そもそも俺のことを追ってきたのなら、顔を確認した時点で追ってくるだろう。あの汚いコートの皺まで見える距離だ。街灯の前に来た頃にはスッカリ馬鹿らしく思えてきて、俺はその方を見向きもせずに通り過ぎた。
「すみません。」
不意打ちだった。後頭部に投げかけられた男の声は、妙にくぐもっていた。その異様な響きに、俺の足は俺の意識とは関係なく動きを止めてしまった。
「どこかで、お会いしませんでしたか。」
「知りません」と答えて、そのまま振り返らずに歩いていくのが、どう考えてもベストだった。自分の顔を知っている人間には極力会いたくなかったし、知らない人間なら尚更気味が悪い。こんな夜中に、「どこかでお会いしませんでしたか」などと知らない人間に話しかけてくる奴が正常な訳がないのだ。だが、俺の足は硬直していた。体中から粘っこい汗が滲出していた。俺の無意識が認識した「その声を聞いたことがある」という事実を、全意識を注いで否定する。