小説

『甘やかな病』柿沼雅美(『少女病』田山花袋)

 山手線、朝の七時二十分、ホームの列の中で、すみれはいつもと同じ五両目の後方のドアが開くのを待っていた。ドアが開くと同時に人が吐き出され、吐き切れないまま、また人を呑み込んでいく。背中を押されながら電車に乗り込むも、斜め前の男からは離れないように足を踏ん張った。
 この男は四十歳くらいで、顔立ちが良いわけでもスタイルが格別というわけでもない。着ているスーツも特別なものではなく、靴や鞄といった類のものも一般的なものだった。それなのに数か月前に男を見かけてからというもの、すみれは見ていたくてたまらなくなり話す機会がないだろうかと探っていた。一目惚れ、というものなのかすみれ自身にも分からなかった。
 男がスマートフォンに視線を下ろすと、無造作にセットしてきたのだろう前髪が少し落ちる。それを右手の人差し指、中指でさっと直し、窓に映る自分の姿をちらと見る。指輪をしているから既婚者なのだろう、年齢を考えれば子供もいるのだろう、と考えると、心の中ですみれは何度か舌打ちをしかけた。
 二十代後半になり、すみれの友人たちは三十歳を目前にここぞとばかり結婚をした。それをうらやましく思う反面、拭いきれない疑問が心に薄く膜を張っているようだった。愛する気持ちはもちろん分かる、その人と一緒にいたいと決断するのも当たり前かもしれない。しかし、向こう何十年とあるかもしれない自分の人生をその相手一人に今決めてしまって良いものなのだろうか。そもそも、それが本当に正しく自然なことであるならば、この世の中にある離婚や浮気や不倫といったものは一体なんなのであろうか。結局は、かわるがわるの環境や心情にもまれながら、我慢ができるかどうか決意と覚悟を貫けるかという関係性になってしまうのではないだろうか、いや、しかし、それが自然なことなのだろうか。 
すみれだってその気になれば友人と違わぬ行為ができるはずである。中肉中背の体型だが清潔感があり実際の年齢よりも若く見られることが多い。家庭環境や出身校や職場にも問題はひとつもない。しかし、考えながら揺られていると胃のあたりから澱粉質のものがせり上がってきそうになった。
 思えば、すみれには結婚式というものにも疑問が多くあった。なぜ祝う側も祝われる側もあれほどお金がかかるのか、なぜ友人の余興をやるなり見るなりしなければならないのか、なぜ親への感謝の気持ちをわざわざ披露されなければならないのか、なぜ、人の幸せをこれ見よがしに黙って座って受け止めなければならないのか。なぜ、女というのは若くなければなどという目で世間は見るのか、子供を産むのに生物的にタイムリミットがあるのか。
 すみれは車両に詰まった人々の顔をぐるりと見渡して思った。人生のうちの男女間の幸せというものはなんと心強く頼りないのだろうと。幸せと信じてやまない瞬間は、これからも何があっても乗り越えられるだろうと気持ちが人間を別人のようし、その幸せが夏場の氷のように少しずつ溶け形を変えていくと、幸せとは遠い選択をしなければならなくなる。はたして自分はどちらになるのだろう、どちらでもいい、もしくは、どちらも嫌だ。

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