ばたっと音がして、チカ子は反射的に本を閉じた。読みかけの小説はちょうど、山場に差しかかったところだった。毎日数ページ。時間の許す限り読み進めてきたのだ。しかしそのドアの閉まる音は、どんなに話が途中でも、チカ子の唯一の現実逃避を中断させた。
栞代わりに挟まれる図書館の貸し出し票。
その返却日を見て、はあっとため息が漏れる。また読み切れないかもしれない。返却と同時に借りなおすのは今回が四度目だった。
ぱた、ぱた、と廊下を叩くスリッパの音が近づいてくる。チカ子はぐっと自分のお腹に力を入れ、キッチンのテーブルから廊下への入り口を見つめた。ドアノブが回る。ドアが開く。ぬっと、様子をうかがうようにアキエがキッチンに現れた。
「チカ子さん。ちょっとお話があるんだけど」
「何ですか」
チカ子は淡々と答える。最初は「またか」と哀しくもなったが、今はもうすっかり慣れた。話の内容は分かっている。何ならアキエが次を言う前に、チカ子が全部言ってしまうこともできる。テーブルに近づき、向き合うように座るアキエを見てチカ子はそう思った。
「お茶飲みますか、それともコーヒーとか」
アキエが座ると同時に椅子から立ち上がり、コップを二つ準備しながらチカ子は尋ねる。返事は返ってこない。振り返らず、声だけ大きくしてチカ子はもう一度聞いた。
「飲みますか、お義母さん」
「ありがとう。でも結構よ。もう十分頂いたから」
か細い声が響く。でもチカ子はもう二人分入れている。飲むか飲まないかはアキエが決めればいい。淹れなければ、「飲ましてもらえなかった」と思われても困るからだ。アキエの前にコップを置き、自分の椅子に戻ると、毒が入っていないのを証明するかのようにチカ子はまずひと口飲んでみせた。申し訳なさそうにうつむいたまま、アキエもゆっくり飲み始める。軽く左手を添え、静かに口をつける。白く細い指。柔らかく閉じたまぶた。音なくテーブルに戻されるコップ。何とも上品な飲み方だった。それだけに一層、チカ子はアキエの身なりが気になった。
毎日着続けるよそ行きのブラウスには、胸元に染みがついていた。紺のスカートは色褪せて、裾の一部はほつれている。髪はきちんと梳かされていないのか、まるで灰を被ったかのように白髪が見え隠れした。
「でね、チカ子さん。ちょっといいかしら」
「何でしょう」
チカ子は壁の時計に目をやった。やはり三時四十分だ。毎日必ずこの時間なのだ。
「私の通帳知らないかしら。見つからないのよ」
「昨日、枕カバーの中にしまってましたけど。そこじゃないんですか」
「そんなところにはしまわないわよ。チカ子さんが隠したの?」
深呼吸して、チカ子は練習していた出来る限りの優しい声を出す。
「お義母さんが自分でしまってましたよ。そこなら盗られないって」
「そんなはずないわよ」
「探してみました?」
「私はそんなところしまわないもの。通帳よ」
「枕カバー、探してみました?」
「いつも置いてる場所にないのね。だからチカ子さん知らないかしらと思って」
「だから枕カバーの中は見てみました?」
「チカ子さん、持ってるんじゃないの? 私の通帳」