SOMPO認知症エッセイコンテスト

『おとぎばなしのような思い出』田崎雪子

 私の両親はあまり子どもに興味のないひとたちだった。現代なら、子どものいない共稼ぎのDINKという結婚の形態も、十分認められているが、昔はそうではなかった。結婚したら、子どもを持つのが当たり前の時代。両親とも特に疑問を持つことなく、姉と私、二人の子どもを持ち、私たちを育成した。だが、両親は、子どもたちが、学校でどんな成績をとろうが、運動会や参観に来るとかの、成長段階に全く脅威を持たなかった。そんなことに目を向けるより、それぞれの友人たちと食事や旅行を楽しむ小さな社交界を盛んに楽しんでいた。当時としては、ハイカラな人たちだった。
 私は親からは「私たちが一生懸命働いているから、あんたたちは何不自由ない生活ができるのよ」と、聞かされていた。事実、移植中に不足はないし、祖父母がいたので、困ったことはなかった。親との想い出は皆無だが、それを寂しく思うことはなかった。子どもというのは、その環境に慣れるものだ。親以外でも、親身になってくれる大人が愛情を供給してくれれば、なんら問題はなかった。
 やがて、私は大人になり、親は老いた。母の認知に衰えが始まり、介護が必用になると、
「昔、一緒にあそこの温泉に行ったね」「あそこのお店で、よく一緒に食事をしたね」と、私に、思い出話をするようになった。
 思い出を美しく彩るのは、人間の習性だが、ありもしない思い出を作り出すのには閉口した。「そんなところ、行ったことがないよ」「どこにも連れていってもらったことなんかないよ!」そう苛立った口調で何度言っただろう。そう言うと、母は、「行ったよ。あんた、忘れちゃったのね……」と、しょんぼりする。今さら、何かの仇を討ちたいわけではない。ただ、子どもに無関心を決め込んでいた母が、「今まで子どもを、うんと可愛がってきた」と記憶をスライドしているのに、ガマンできなかった。認知機能の落ちている老いた親に、本当のことを思い出させる必用なんてないのに。
 私が思い出を否定するたび、母が悲しそうな顔をする。それで、私の溜飲が下がることはない。私は「老いた親に悲しい表情をさせる罪」に耐えきれなかった。
 私が、いい娘だったかといえば、そうとはいいかねる。母がうるさくないのをいいことに、若い頃は野放図に過ごしていた。その屋台骨を支えてくれたのは親ではないか。自分勝手な私を、母は疎ましく思うこともあったと思う。
「そうそう、行ったね。あそこの温泉は、お魚がおいしかったねえ!」
 私は、母の繰り返される思い出話にやけくそで調子を合わせた。母は、嬉しそうに声を上ずらせて、さえずり続けた。
 スッと肩の力が抜けた。
 これでいいのだ。母には、私と一緒にたくさん楽しい時間を過ごしてきた思い出がある。事実ではなくても、母の中では実在しているのだ。そして、その思い出を共有するのが、私のできる数少ない親孝行なのだと思う。
 小さな頃、寂しくはないとはいうものの、母との体験が欲しかった。周りの友達のように、お母さんと一緒にちょっとお出かけをするとか、レストランに行くとか、その程度でいい。渇望ではないが、子どもだから、友達を、羨ましく思っていた。
 母は「よく、一緒にでかけたわね」と、楽しそうに語る。母の中で真実なら、私もそこに参加しよう。思い出は、思い出すだけでなく、作り出すものでもいいはずだ。