「母さん、何度言ったら分かるんだい?」
父が祖母にため息交じりでこう言うのを、もう何度聞いただろう。
祖母と結婚してからずっと北海道に住んでいた祖母が、東京の私たち家族の家で暮らし始めてから一ヶ月程経つ。祖母が来たときはまだ夏の暑さが残っていたが、今はもうすっかり秋だ。通学路のいちょうの並木も、黄色く色付き始めている。
祖母は大抵居間でテレビを見ているか、母を手伝って洗濯物を畳んだりなんかしているが、突然、自分の部屋へ行ってハンドバッグを取ってきたかと思うと、
「私、北海道へ帰らないと」
と家を出ていこうとする。今回もそう言い出し、父を呆れさせたのだった。
「第一、一人で帰れるわけがないだろう? うちに来るときだって、俺が北海道まで迎えに行って、一緒に東京へ来たじゃないか」
父にそう言われ、もとから小柄な祖母はさらに小さくなって、バッグを片付けた。
ある日、私が学校から帰ると母は買い物に出かけていて、祖母は一人で留守番をしていた。
「おかえり、マキ」
笑顔で迎えてくれた祖母は、色鉛筆を握っていた。その手許のテーブルの上には、チラシの裏の白紙に小さな黄色いまるがいくつか描かれている。
「めずらしいね。絵を描いているの?」
「そうなの。でも、どう描いていいか分からなくてね」
もう一度、テーブルの上の紙に目をやる。けれど、どう見ても黄色いまるにしか見えない。
ふと、中学校のときに職場体験で訪れた老人ホームで、そこに住む認知症のおばあちゃんと塗り絵をした記憶が蘇った。そのおばあちゃんは色鉛筆の削られていない方で一生懸命絵をこすっていた。私が「こっちで塗るといいよ」とそっと尖った方を下に向けて持ち替えさせると、照れたように笑ってまた手を動かし始めた。
父から祖母も認知症だということは聞かされていた。しかし、突然他移動へ帰ると言い出すこと以外は以前と同じ「元気なおばあちゃん」として私の目に映る祖母。それだけに、祖母の少し変わった行動に敏感になっているのかもしれない。
「何を描こうとしているの?」
何気ないように聞いてみる。
「栗よ。でも全然そう見えないでしょう?」
内心ひやりとした。私だったら、栗を描くとすると茶色い色鉛筆を使う。しかし祖母はひとりあっけらかんとして笑っている。
「茶色とか使ったら、もっと栗っぽくなるんじゃない?」
私は祖母の横に座り、チラシのスペースにクリを描いてみた。楕円の上半分を指でつまんだような、おなじみの形。もちろん、茶色を使った。
「マキは上手ねぇ」
祖母は本当に感心しているようだった。
「おばあちゃんも、これくらい描けるよ」
そう言って私は祖母に茶色の色鉛筆を握らせようとしたが、祖母は首を振った。
「どうして?」
私の困惑とは裏腹に、祖母の表情は柔らかだ。
「私の栗はね、オサムさんが公園で拾ってきてくれた栗なの」
オサムさんとは、私の祖父のことだ。車の事故で亡くなってから、二十年近く経つ。
「毎年秋になると、休みの日には公園へ行って拾ってきたのよ。私がそれを茹でて、二人で食べたの」
遠くで見つめる祖母の目が、少しきらっとした。
「栗を半分に切って、黄色い実を小さめのスプーンでくり抜くのよ。少し苦かったけど、秋の休日は、オサムさんが家に帰ってくるのがひときわ待ち遠しかった」
「おばあちゃん……」
祖母の手に、私の手をそっと重ねた。
祖母には、北海道の家での祖父との思い出があるのだ。なのに、認知症のことがあって東京に連れてこられてしまった。帰りたくなるのも無理はない。
「もう、オサムさんはいないのにね」
ぽつんと、祖母が言った。
そういえば、祖母が北海道へ帰ると言いだすのは決まって休日だ。それに気づいて、胸を刺されたようだった。
認知症だからと言って、住む場所を強制的に変えられる義務はないはずだ。でも、父が祖母を思っての選択であり、私は口を出せない。私にできることは……。
「おばあちゃん。おじいちゃんの話、もっと聞かせて」