SOMPO認知症エッセイコンテスト

『ツルの恩返し』渡辺惠子

 今から3年前のこと。我が家に突然警察から電話が掛かってきた。義母が散歩中に自分の家がわからなくなり、交番で保護されているという。
 義母は、当時87歳。義父が亡くなってから15年間、隣町の夫の実家で、一人暮らしをしていた。私たち夫婦は、独立して八百屋を営んでおり、日々の忙しさにかまけ、しばらくご無沙汰だった。

 急きょ交番に駆けつけた私たちは、目もうつろで生気がなく、ほんの数ヶ月で、すっかり豹変してしまった義母に愕然とした。義母自身もパニック状態で、うわごとを呟いている。
「何が何やら、全然わかれへん。これから私、どうなってしまうんやろか……」

 夫は一人っ子で、他に頼る兄弟がいない。私たちは、毎日、店を開けなければならない。もしも、またこんな事態になったなら、店を放り出して、義母のところへ駆けつけることはできない。私たちは苦渋の選択で、義母を我が家へ連れて帰ることにした。

 義母が来てから、私が食事の支度をし始めると、義母は台所をウロウロ歩き回りながら、「私も何か手伝うわ」と、私に喋りかけてくる。砂糖と塩を間違えたり、鍋を焦がされたりしたら、かえって手間がかかる。私は、「大丈夫です」と遠回しに断る。こんなやり取りが毎日のように続き、正直、辟易した。排泄の方は、今のところは何とか自立しているものの、階段の上り下りは無理だ。同じことを何度も聞いたり、とんちんかんな反応をすることも、日増しに顕著になってきた。

 そろそろ義母を施設にと考えている矢先、私は、階段で足を踏み外して転げ落ちた拍子に、利き手の手首を捻挫してしまった。それを知った義母は、目を爛々と輝かせながら言った。
「今日は私が、ばら寿司作るわ。飯台は? お米は? 具材は店にある? 調味料は? 」
 義母は、完全にスイッチがオンになっている。ここで無理に止めるのは難しいだろうと、私は店から適当に具材を見繕って、しぶしぶ義母に渡した。

 それから3時間ほど経った頃、恐る恐る台所を覗いてみると、一升用の飯台に、山盛りになった具沢山のばら寿司が、テーブルに置かれていた。ざっと、25人前はあるだろうか。ちょうど土曜日だったので、近所で一人暮らしをしている息子も呼んで、一緒にばら寿司を囲んだ。息子は、「これは、旨い!」と、唸りながら、三杯目をお皿に盛っている。確かに義母のばら寿司は絶品だった。ご飯に甘酸っぱい酢がしっかりしみ込んで、具の味付けも、少し甘めで、絶妙なバランスだった。

「それにしてもお義母さん! 家族だけでこんなに沢山、どうやって食べるんですか?」
 思わずため息をついた私に、義母は困惑の表情を浮かべた。
「昔、実家の食堂手伝ってたから、4、5人分のばら寿司なんか、作ったことないもん」
 その時、息子がボソッと呟いた。
「店で売ったら、ええやん」

 その言葉に夫と私の箸が止まり、お互い顔を見合わせた。余ったばら寿司をパックに詰めてみたら15人前取れた。義母は、「こんな、まかない寿司、売りもんになるんかいな」と、照れ笑いしながらも、まんざらでもなさそうだ。

「商品のネーミングは、ばあちゃんの名前が『ツル』やから、『ツルのまかない寿司』や」
 広告会社に勤めている息子は、独り言を言いながら、そこら辺にあった厚紙に、マジックペンで器用にPOPを描き始めた。そして店頭にそれを飾って、ばら寿司を並べた。息子は、ばら寿司のところで立ち止まって眺めているお客さんに、「うちのおばあちゃんが作った、ご飯より具が多い、豪華版のばら寿司ですよ」と、ちゃっかり営業までしている。

 息子のトーク力とPOPが功をなしたのか、義母のばら寿司が美味しそうに見えたのか、15パックは、2時間足らずで完売した。
 それから2日後の月曜日。あの日に、ばら寿司を買ったお客さんが、「確かツルっていう名前が付いてたお寿司、今日はないの?」と、店内を探している姿を見かけた。

 義母に話すと、少女のように、はしゃいだ。
「一升分やったら、毎日でも出来るよ」
 それを機に義母は、ばら寿司を作るのが日課になった。口コミで噂が広がり店頭に並べる午後3時頃には、待っている固定客が何人か現れるようになった。25パックのばら寿司は、毎日15分もしないうちに売り切れてしまう。

 あれから3年。義母は今年、90歳を迎えた。義母の作るばら寿司は瞬く間に売り切れて
しまうので、近所では、「幻のばら寿司」と呼ばれている。
 最近、義母は足腰が弱ってきて、私も手伝うようになったが、味付けは絶対私に任さない。家族の名前を忘れても、字が書けなくなっても、義母は未だにプロ顔負けのばら寿司を作る。

「お義母さんのおかげで、ほんまに助かるわ」
先日、仕込み中の義母に労いの声を掛けたら、いきなり場外ホームランを返してきた。

「あんたたちへの、『ツルの恩返し』じゃ!」