SOMPO認知症エッセイコンテスト

『今は温泉』黒田由美

多くの人に助けられて、今、母は生きている。

75歳を過ぎた頃から、母に認知症の症状が出始めた。物忘れから始まり、日常生活のちょっとした段取りがわからなくなり、電化製品の使い方がわからなくなった。よく認知症の人は自分が認知症であることがわからないと言われるが、母には記憶や思考が混乱している自覚があった。頭の中の不気味な違和感が暗示する絶望的な病名、認知症。その恐怖に圧し潰され、母は老人性鬱になった。

鬱になった母は、食事に呼んでもベッドから出てこなくなった。好きだったグラタンやおかゆを作って枕元に持って行っても、朝までそのまま。無理に布団を剥がして手を引っ張っても立ち上がらせることができない。最初のうちは「もういいの…。死にたい…。」などと喋っていたが、そのうちア~ア~と弱弱しく呻き声を上げるだけになり、焦点の定まらない目でぼんやり虚空を見つめたまま、見る見る衰弱していった。
父が死んでから私は母と二人暮らし。誰にも助けを求められずに行き詰っていた。

その日私は早めに会社を出て、地域包括センターに向かった。秋だった。もう日は短くなっていて、5時前だというのにすでに周りは薄暗い。一年ほど前、母を心配したシニアクラブの人に紹介されて初めて地域包括センターを訪れた。そこのケアマネージャーに指導されて、介護認定の調査を受けた。結果は要支援1。介護サービスも殆ど使えないので、それきりだった。助けてもらえるかどうかわからない。お役所仕事なので「管轄ではありません」と言って追い返されるかもしれない。不安に怯えながら地域包括センターの扉をノックした。
ケアマネージャーは帰り支度をしているところだった。
「どうされましたか?」
彼女はこちらに笑顔を向けた。多くの人を看てきたベテランの笑顔だった。私は必死で状況を説明し、助けてくださいと懇願した。
「…わかりました。今からお宅に訪問させてもらっていいですか?」
迷いのないまっすぐな目が私を見返してきた。

ケアマネージャーはベッドに近寄ると母に呼びかけ始めた。根気強く呼びかけていると、母がモゾモゾし始めた。すかさず介助して上体を起こさせ、あまりに自然な動きだったので何が起きたのかわからず呆気にとられる私の前で、気づくと優しく母をベッドから連れ出していた。
急いでおかゆを作り、お箸を持たせたら、母はそれを食べた。

介護認定の更新で母は要介護2となり、デイサービスを利用することになった。初日が終わって連絡帳を見ると、「お昼ご飯の後、“帰りたい”と泣き出されました。ベッドに寝かせて慰めたのですが泣き止まず、ずっと心細そうにしていました。二度と家に帰れないと思ったみたいです。」と書いてあった。

インフルエンザシーズンを迎えるにあたり、ショートステイも準備することになった。私が罹ってしまった時にシェルターにするためである。二泊三日の事前トライアルが終わり、母が家に帰ってきた。
「あら、あなた居たの?」
玄関に迎えに出た私の顔を見て、母が不思議そうに言った。母を連れてきてくれたドライバーが気の毒そうな顔をして事情を説明してくれた。
「車から降ろそうとしたら、“私、引っ越したの。もう家は無くなったの。”と言ったまま小さくなっているのでね、“大丈夫。ここはあなたの家ですよ。お嬢さん待ってますよ。”と言って安心させたんです。」
私はドライバーにお礼を言った。

認知症への恐怖で自分の殻に閉じこもっていた母は、デイサービスのゲームの時間に参加したことがなかったのだが、そんな母に「一緒にやろうよ」と毎回声を掛けてくれる同じ年頃の女性がいた。お風呂の順番が一緒で、お風呂上りに必ず「いい温泉だったね」と言う人だった。
その日はお風呂から出てもベッドには行かず、彼女に誘われるまま初めてゲームに参加した。その日のゲームはボールリレーだった。ボールを受け取り損ねて思わず笑いが込み上げた。1人で泣いていることしかできなかった母は、「温泉が好き」という彼女の楽しい思い出話を聞いて、一緒に笑えるようになっていった。

鬱になって以来、言葉を理解するのも難しいほど衰弱していた母が、デイサービスから帰るたびに「温泉に行きたい」と言うようになった。私はケアマネージャーと相談し、昔父とよく行った箱根温泉に母を連れて行った。

母はデイサービスを楽しめるようになった。体重も増え、言葉を理解することも出来るようになった。そしてまたショートステイを利用する時が来た。念のため携帯電話を持たせたら、最終日に母から電話が掛かってきた。
「今温泉に泊まってるんだけど迎えに来てくれない?」
母の声は明るかった。露天風呂の気持ちいい季節になったらまた本物の温泉に連れて行こう。母が大好きな山の景色を思い浮かべながら私は携帯電話を折りたたんだ。