SOMPO認知症エッセイコンテスト

『忘れられない利用者さん』内藤寿美子

 もうあれから、三年が経つ。今も、私の心の中に、住み続けている一人の人がいる。
 私は、グループホームに勤務している。利用者さんは、女性ばかり九人。全員が認知症と診断を受けた人である。
 私が勤務し始めた当初は、その中の一人、Aさんは、端正な顔立ちで、ショートカットの良く似合う上品な老婦人であった。上下に義歯をはめていたが、食事も、排泄も自立し、ある程度の会話も成り立っていたように、記憶している。
 二年後、否応なく病気は進行し、Aさんの脳は蝕まれていった。義歯の装着が困難になり、普通食からミキサー食へ、検温・服薬も難しくなった。昼間居眠りが多くなり、夕方から活発に歩き回る。排泄もたびたび、介助を必要とするようになった。椅子にもたれかかり、腕組みし、焦点の合わない視線を宙に漂わせる時間も増えた。言葉もまた、ほとんど通じなくなってしまった。
 Aさんは、以前、保健婦として勤務し、様々なボランティア活動に参加、趣味は木彫り、警察官の夫を持ち、子宝に恵まれ、多くの人に慕われ、愛されていた。しかし、病は、彼女から、充実した暮らしを、まるごと奪ってしまった。現段階では、効果的な治療薬も無く、回復する見込みのない病が・・・。
 そのAさんが、いつからか、私の心を捉えて離さない存在になっていた。
 今でも覚えている。茶碗拭きの事。私は、Aさんに茶碗拭きを手伝ってもらっていた。洗い終わった茶碗の前に来てもらい、布巾を渡すと、自然とAさんの手は動き出した。病気の進行がかなり進んでからも、Aさんの手は動いた。初めは、Aさんが拭き終わると、「ありがとう。」と言葉だけで、感謝の気持ちを伝えていた。そのうち、山盛りの茶碗を嫌な顔一つみせず、茶碗拭きに専念するAさんの姿に、私の心が動かされた。ある時、私はもっとしっかりと感謝の気持ちを伝えたい衝動にかられた。茶碗を拭き終わったAさんの手を取り、やさしく握りしめた。Aさんに、少し戸惑いの表情がみられたが、すぐに笑顔に変った。彼女の笑顔は、柔らかく、私の心に沁み込んでいった。手の平と手の平の接触は、単に互いの体温を伝え合うだけでなく、生き物どうしが持つ、言葉を越えた何かを伝え合ったようだ。
 その日から、私は日課のように、Aさんに茶碗拭きをお願いし、手を握り続けた。Aさんは、家族も識別できなくなってしまった。会話もほとんど成り立たない。Aさんの記憶をつかさどる海馬が故障してしまったのだ。当然の事ながら、週四勤、しかもたった六時間勤務の私の存在など、鉛筆の文字が消しゴムで消えていくように、Aさんの記憶から、抹消されていくはずと思っていた。
 にもかかわらず。私は、幾たびか、例外的な出来事に遭遇した。
 数週間休暇を取って、初めての勤務の日、Aさんは私に向かって「帰ってきてくれはったんや。」と、満面の笑みを浮かべて、私を迎えてくれた。私は、半ば驚嘆し、半ば心を躍らせながら、「ただいま。」と返した。
 いつしかAさんと私は目が合うと、互いに微笑み合うようになっていた。何度か、微笑み交わした後、Aさんは、自分の席を立ち、わたしのそばまでやってきて、私の隣の椅子に腰を降ろした。内容はなかなか理解しづらいが、「かわいい娘が・・・。」「きてくれはってな・・・。」「あそこのおばあさんが・・・。」目を輝かせながら、笑みを浮かべながら、私に伝えようとしてくれた。
 Aさんが、持ち続けていたことがあった。
暮らしの中で、身についたのであろうか。自分より、まず、相手を大事にしようとする態度である。私が席に座るように勧めても、まず、私の座る席があることを確認する。自分の席しか見当たらない時は、自分の席を私に譲ろうとする。食事にしても、私のテーブルの前に何も置かれていなければ、Aさんの前に用意されているごはんやおかずを私のテーブルの前に移動させようとする。そのAさんの姿に、自分の事を最優先にすることの多い私は、じんわりと感動した。
 確かに認知症は、Aさんの脳を蝕んでいった。だが、人を思いやる心・感謝の気持ち・笑顔といったAさんの大切な資質までは、奪い去ることが出来なかった。私はAさんの中に、人間の尊厳を見出し、幾度心を打たれたことであろう。
 Aさんは、三年前に他界した。私は今も、Aさんから、学んだことを胸に、グループホームで勤務している。人は、認知症である前に人間であること。「お世話してあげる」ではなく、「共に生きていこう。」という姿勢が大切だということ。