ハナちゃんがまたいなくなった。
高校から帰ってすぐ、私は疲れた表情のお母さんにそう告げられた。
七十四歳のハナちゃんは私の祖母で、まだ五月なのに行方不明になるのは今年に入って三度目だった。
鞄を置いて、私はハナちゃんを探しに出た。すでに役場や警察にも連絡して探してもらっていたけど、ハナちゃんが心配でいてもたってもいられなかった。
結局、ハナちゃんは午後七時頃、ため池の傍でしゃがみこんでいる所を自治区長さんに発見された。
私はハナちゃんの腕を掴んだまま、お母さんやお父さんが役場や警察の人、デイサービスの職員さんに頭を下げているのを遠くから見ていた。
ハナちゃんに認知症の兆候が現れたのは三年前だった。最初はちょっとした物忘れだったけど、次第に大事な約束事を忘れたり自分がいる場所が分からなくなったりするようになり、去年から徘徊が始まった。
ハナちゃんの様子を見ていると、ハナちゃんはときおり、私のお父さんがまだ子供だった頃に戻ってしまうようだった。
当時、ハナちゃんやおじいちゃん、お父さんが一緒に暮らしていた長崎県の五島列島に帰って、食事の準備をしなければいけないと思い込んでしまうのだ。
ハナちゃんは夕方になるとよく落ち着かなくなるので、なるべくお母さんか私が家にいるようにしていたけど、つきっきりでいることはできないし、足腰が丈夫なハナちゃんは動きも俊敏で、徘徊を完全に止めることは困難だった。
今年三度目の徘徊を終えたハナちゃんが眠りについた後に、私たちは誰からともなくリビングに集まった。
「もう限界だよ。ドアに母さんが開けられないような鍵をつけよう」
お父さんはいつもの主張を繰り返した。
「ダメよ、そんなかわいそうなことできないわ」母さんが答える。
「そんなこと言っても、どれだけ周りの人たち迷惑かけてると思ってるんだ」
「でも、きっと余計興奮しちゃうわよ。あなたは家にいないからそんなこと言えるけど……」
そんな口論が一時間は続いたころ、私は涙をこらえきれなくなった。
家から出ようとするハナちゃんを説得する大変さは身をもって知っていた。それでも、行きたいところがあるのに、鍵を開けることができないハナちゃんは見たくなかった。私の大好きなおばあちゃんをそんな風に困らせるのは、我慢できなかった。ただ、お父さんの言うことも分かるのだ。だからこその涙だった。
「違う方法がないか考えるから。考えるから、閉じ込めるとか言わないでよ……」
私は大粒の涙を流しながら、それだけ言うのが精いっぱいだった。
嗚咽を漏らし続ける私の前で、お父さんもお母さんも、それ以上口論を続けるのは憚られるようだった。
その日の話し合いは中断となり、翌日、私たちはハナちゃんがデイサービスに言っている間に役場を訪れた。
役場を訪ねたのは、最初に相談したデイサービスの職員さんが、役場にある地域包括支援センターを紹介してくれたからだった。
センターの職員は、丁寧に私たちの状況を聞きとってくれた。お父さんも最初は家の内情まで話すことに抵抗があったようだけど、やがて、ぽつりぽつりと、母を閉じ込めたくないけど、周囲に迷惑はかけたくないという本心を語り始めた。
センターの職員さんは、ハナちゃんが玄関から外に出ようとするとブザーが鳴るセンサーや、ハナちゃんの服に取り付けることができる発信機を紹介してくれたうえ、私たちが住む地域の民生委員さんにもハナちゃんが一人で歩いているときは私たちに知らせるよう頼んでくれるということだった。
こうして情報収集を行ったうえで、話し合いを重ね、私たちはひとつの作戦を立てた。
『ハナちゃんが出て行かないように最大限の準備をしたうえで、もし出て行ってしまったら、そのときは諦めて迷惑をかけてしまおう』
お父さんは最後まで納得しきれないようだったが、私とお母さんで説得した。
それからは、お父さんが率先して、民生委員さんや近所の人にハナちゃんのことを話しに行ってくれた。きっと誰よりも、ハナちゃんの自由を奪いたくなかったのはお父さんだったのだ。
私たちはその夏、家族四人で五島列島に旅行した。
ハナちゃんとお父さんたちが暮らしていた家はもう開発されて跡形もなくなっていたけど、残っていた近所の神社に入ったとき、ハナちゃんは遠くを見るような、言葉を失うような、明らかに見たことのない表情をしていた。
本土に向かう船の中で、私はハナちゃんと手をつないだ。
きっとこれからも、変わらずハナちゃんは徘徊を繰り返すだろう。認知症が進行して私のことを分からなくなることだってあるかもしれない。
ただ、私たちがこうして一緒に旅行した事実は消えないし、私たちの絆があれば、どんな状況になっても乗り越えていけるような、そんな確信めいた気持ちが生まれていた。
私たちは大丈夫。ねえ、ハナちゃん。