SOMPO認知症エッセイコンテスト

『おばあちゃんのように生きたい』板倉萌

 私のおばあちゃんは97歳。私が産まれた時から一緒に暮らしてきた。今は近所の特別養護老人ホームに居る。
 私の両親は教師で、朝早くから夕方遅くまで働いていた。でも、家にはおばあちゃんがいつもいてくれたから、幼い頃から寂しい思いをしたことはなかった。
 小学生の頃、お腹が痛いと言えば、治まるまでお腹をさすってくれ、習字をすれば「上手いねえ」と手をたたいて褒めてくれた。宿題の音読もいつも聞いてくれ、「いい声やねえ」と感心してくれた。
 中学生になると、私は毎日のように英会話教室に通い、そのおかげで高校は国際科に合格した。でもそれは、私一人が頑張ったからではなく、おばあちゃんが毎日、私のレッスンに間に合うように、一生懸命おいしい夕食をつくってくれたからできたことだ。自分の子どもが中学生になり、塾に行き始めて、時計を何度も見ながら夕食を作るようになった時、「ああ、おばあちゃんもこんな風に、私のためにせわしない思いをして夕食を作ってくれていたのだ」と気づいて、ジーンとなった。
 大学生の時、親が旅行に出ていた夜、当時付き合っていた彼氏をこっそり自分の部屋に泊めたことがあった。そーっと玄関から彼の靴を隠し、秘密を装っていたのに、おばあちゃんはしっかり気付いていた。翌朝私の食卓には二枚お皿が並び、剥いたリンゴと食パンが整然と置いてあった。今でもそのことを思い出すと、おばあちゃんの無言の優しさに胸が熱くなる。
 おばあちゃんは10年ぐらい前から、よく転んで怪我をするようになった。認知症も次第にひどくなり、薬缶や鍋の空焚きをしたり、夜中に時々譫言を言ったりするようになった。食事を済ませたことさえ分からなくなることもあった。近所に住んでいた私は食事作りやゴミ出しを手伝いに通っていたが、やがて父が介護するようになり、それも父の負担が限界になり、順番を待って昨年特別養護老人ホームに入居した。
 おばあちゃんは施設に入ってからは、自分の郷里に住んでいると思いこむようになったようで、施設のスタッフのことを「村の人」と読んだり、入浴することを「お風呂屋さんに行く」と言ったりする。
 一か月に数回面会に行くのだが、おばあちゃんはいつ行っても私のことを認識できず、近所に住んでいた女の子と私を勘違いする。当初はそれが嫌で、何度も「私は、おばあちゃんの孫の萌だよ」と大きな声で言っていたが、毎回私のことを別の名前で呼ぶので、とうとう私も観念して、その知らない女の子として、おばあちゃんと接することにした。認知症のことを勉強すると、『本当のことばかり頭ごなしに言っても、お年寄りは混乱するだけなので、話を合わせてあげましょう』とあった。それで正解だったのだ。
「あっちゃん、遠い所からよう来てくれたね」と笑顔で話すおばあちゃんと会えたら、それでもう充分私は幸せだ。おばあちゃんの話の節々から、幼馴染の娘さんであるあっちゃんのことを、私と同じように目に懸けて可愛がっていたことがよく分かる。
 ある日父から、「あっちゃんから、お母さんの喪中ハガキ届いたよ」と聞いたが、決しておばあちゃんには言わないでおこうと思った。
 昨年、おばあちゃんの誕生日に施設を訪れると、ちょうどお誕生日会をしてもらっていた。施設のスタッフと入居者の方全員に「ハッピーバースデートゥーユー」を歌ってもらい、色紙と写真立てを受け取ったおばあちゃんは、「えっ、私の誕生日、今日?何でみんな知ってはるの?こんなお祝いしてもらったら、お礼状書かなあかん」と私に言った。おばあちゃんは認知症になっても、謙虚で礼儀正しい性格は何も変わっていないのだなあ、と私は感じた。
 私が大学進学で家を出るまで、おばあちゃんは台所のカレンダーに家族全員の予定を書き込んでいた。それを見ながら家族のためにいつも一生懸命動いてくれていた姿は、まさに我が家の縁の下の力持ちだった。私とちがって自分のためにほとんど時間を使わず、不平不満も、家族の悪口も言わなかったおばあちゃん。自分が結婚して子育てをしていると、様々な場面でおばあちゃんのことが思い浮かぶ。そして、私もそんな風にいつか家族に思い出してもらえるように、ひたむきに生きたい。