SOMPO認知症エッセイコンテスト

『いい子だね』太田ユミ子

 もう、五十年以上も昔、友子が小学生だった頃、毎年、夏休みに奈良からお母さんの実家のある静岡に帰省した。実家にはおじさんとおばさん、五人のイトコたち、おばあさんが住んでいた。
 実家は古い大きな木造の家で天上が高く、広々とした座敷がいくつもあった。広い前庭には畑があり、裏庭は竹薮で囲まれていた。竹薮を抜けると大きな川が流れていた。友子はイトコたちと川で魚取りをしたり、泳いだりして毎日、暗くなるまで遊んだ。友子は一人っ子だったので、イトコたちと遊ぶのは楽しかった。
 実家に行くと、お母さんは「セッちゃん」になる。おじさんもおばさんも「セッちゃん」イトコたちも「セッちゃん」。「セッちゃん」と呼ばれるとお母さん娘になったり子供になったりする。家では怒ってばっかりなのに、実家にいるとお母さんはよく笑う。もしお父さんがいたら、お母さんは家でもっと笑っていたのかもしれない。友子が二歳の時、お父さんは交通事故で亡くなった。

 おばあさんはみんなが集まってご飯を食べる、広い風通しの良い座敷で、いつも寝ていた。一人で起き上がることも、ご飯を食べることもできなかった。おばあさんは友子が近くにいると、よくお母さんと間違えて、
「セツ、セツ」
 と呼んだ。おばさんが笑顔で、
「おばあちゃんは今も昔もいっしょになってしまうの。トモちゃんはセッちゃんの子供のころにそっくりなのね」
 おばさんは働き者だった。家事はもちろん、畑仕事、寝たきりのおばあさんのお世話もおばさんが一人でしていた。朝早くから夜遅くまで一日中動きまわっていて、おばさんが休んでいる姿を見たことが無かった。何時寝ているのだろうと不思議だった。

 あれはいつの夏だったのだろう。友子はいつものように、イトコたちと川へ遊びに行ったのだが、一人だけ早く帰ってきた。座敷にはいつものようにおばあさんが寝ていた。おばあさんは友子に気がついて、
「セツ、セッちゃん」
 と手をひらひらさせた。友子は聞こえないフリをして台所に行った。
「セツ、セツ・・・」
 おばあさんの声が追いかけてきた。
(うるさいなあ、本物の『セッちゃん』が行けばいいのに)
 お母さんはいなかった。おじさんもおばさんもいなかった。昨夜、夕ご飯の時、遠くの畑にトウモロコシがたくさん実ったので、もぎに行こうと、大人たちが言っていたのを思い出した。三人で畑に行ったのだろう。友子はしかたなく座敷にもどり、おばあさんの枕元に座った。おばあさんはいつもとは違って、落ち着かない様子で、
「だれかいる?」
「いてへん。おばあちゃんと私だけ」
 おばあさんはとてもゆっくりと、枕の下から小さな赤い財布を取り出した。枕の下に財布がかくれていたなんて―友子はびっくりした。おばあさんは財布の中から千円札を一枚出して、
「セツちゃん、あげる」
 おばあさんにお小遣いをもらうのは初めてだった。友子は千円札受け取り、短パンのポケットにしまった。おばあさんは声をひそめて、
「みんなには、ナイショ」
 友子も小さな声で、
「ありがとう」
「セツはいい子だね」
 おばあさんは嬉しそうだった。

 楽しい一週間はすぐに終わってしまう。奈良に帰る日が来た。みんなに見送られて、友子はお母さんと何度も振り返って、手をふった。

「友子、見て!富士山!」
 お母さんは電車の窓を指差した。窓の外には、来る時は雲にかくれて見えなかった富士山がきれいに見えた。その時だった。
(ナイショにしたらダメ!)
 友子の心の中から声が聞こえた。三日前、おばあさんからお金をもらったことを、友子はお母さんに言わなかった。
(おばあちゃんが『ナイショ』て、言ったから、言わなくてもいい。千円あったら、お菓子が一杯買える)
 そう思って黙っていた。でも、このお金はおばあさんが「セッちゃん」にあげたお金。お母さんのお金だ。友子はお母さんにおばあさんからお金をもらったことを話した。
「お母さん、ごめんなさい!」
 小さなカバンの底にかくしていた千円札をお母さんに渡した。
(どうしてすぐに言わなかったの!)
 て、叱られる―ドキドキした。お母さんは何も言わずに、千円札をじっと見つめていた。ふいにお母さんの目から涙があふれた。友子が悪い子だから、お母さんが泣いている。友子も泣きたくなった。お母さんは涙を手の平でぬぐうと、泣き笑いの顔で、
「嬉しい。おばあちゃんが、お母さんのことを思っていてくれたことが、嬉しい。正直に話してくれて、ありがとう。友子はいい子だね」
 お母さんは友子を抱きしめた。お母さんもおばあさんに抱きしめられたことがあるのかな?その時、お母さんは今の友子同じ、とても幸せな気持ちだったのかな?
「セツはいい子だね」
 ふいに、友子はおばあさんの声が聞こえたような気がした。窓の外に目を移すと、まだ富士山が雄大で美しい姿を見せていた。