縁側に置かれたロッキングチェアに座る妻の顔には、柔らかな陽射しがつくる葉影がゆっくりと揺れていた。
彼女はそこで何をするわけでもなく、ただ庭の草木を眺め、穏やかに流れる時をぼうっと過ごす。春の温かい風が白い髪を撫でようが、イロハモミジに羽を休めるシジュウカラが甲高い声で囀ろうが、妻は変わることなくじっと庭を見つめ続けている。
妻が本当にこの場所を好んでいるのかどうか私には分からない。もしかすると、耳障りな生活音から脱するために辿り着いた唯一の場所がそこなのかもしれない。洗濯機が水をかき回す音、食器がガチャガチャと触れ合う音、電子レンジが食品を温める音。生活を奏でる音、その全てはここに届かない。
妻はずっと専業主婦で家庭を支え続けてきた。私は家庭を顧みることなく仕事に没頭し続けた。決して交わることない夫婦の描く平行線。その橋渡しを担ったのは二人の子どもたちだったが、二人とも我が家から巣立ち家庭を持った。
数十年ぶりに訪れた夫婦二人だけの生活。それはとても短調なものだった。私は相変わらず仕事が忙しく、妻は家事とパート勤めに時間を費やした。休日になれば一緒に余暇の時間を過ごしたが、互いにこれといった趣味はなく、その時に得る喜びは線香花火のように一瞬だけ激しく燃え上がり、そして、散っていった。
私は定年退職してからも知り合いの仕事を手伝い精力的に動いてきたので、老後などということを考えたことはなかった。いよいよ七十五歳を迎え、世間一般で言うところの後期高齢者に足を踏み入れた頃になり、ようやく余生を意識し始めた。しかし、時を同じくして突き付けられた現実が妻の認知症だった。
「今はまだ軽度ですね。症状が進行しないよう、服薬だけではなく日常に適度な刺激のある生活を意識して下さい」
主治医の言葉に、一点を見つめロッキングチェアに揺れる妻の姿が頭を過った。
私はこれまでの人生を悔やんだ。私が積み上げてきた仕事の功績は、妻の認知症の改善に何一つとして寄与するものではない。振り返る人生は仕事のことばかりである。そして、これからの未来。仕事に夢や希望を見出してきた私にとって、数年後に訪れる現実味を帯びた未来は想像し難く、ただ不安だけが心に降り積もるのだった。
そんな私の心情を知るはずなどなく、妻はいつものように庭を眺めている。
「昼飯、どうする?」
「なぁんでもいいよ」
「食べたいもの、ないのか?」
「うーん、あんまり」
そう尋ねてはみたが、家事とは無縁だった私が作る料理はもっぱら炒め物ばかりだ。料理だけではない。掃除に洗濯に買い物もそうだ。随分と長く生きてきたが、今さらになって家事がこれほど大変なものだという事実を初めて知った。慣れないパソコンを駆使して家事に関する知恵を調べる日々である。私が作る料理を、そして時には出来合いのものを摂取することは、ただ生命を維持するための手段の一つに過ぎなかった。
「母さんの好きなもの? 大根のお味噌汁でしょ? 今さら何言ってんのよ」
電話の向こう、娘の声は呆れていた。
「すまん、情けない父親で」
「ちゃんと、だしをとるのよ。まさか顆粒の使ってないよね?」
「だし?」
「商店街に伊勢屋商店あるでしょ? 母さん、ずっとあそこの鰹節を買ってたのよ。ホント、何も知らないのね」
「これから、ちゃんとやるさ。頑張って取り戻すから」
「取り戻すって。父さん、別に気負う必要はないからね。母さんにとって夫婦で穏やかな生活を送ることが大切なんだから」
「ああ、わかった」
朝の台所から漂うかつおだしの香り。いつも目覚めにはこの香りがあった。慣れぬ手付きで切った大根は不揃いで、味は少しばかり濃いような気はするが、それでも少なくとも私の舌は不満を感じなかった。
「淳子、朝ご飯できたぞ。今日は大根の味噌汁だ」
「あら、ありがとう」
妻は顔の前に漂う湯気を大きく吸い込んだ。
「いい香りね」
そして、左手で汁碗を持つと優しく息を吹きかけ、ゆっくりと口元へと運んだ。
「美味しい」
そっと呟き、笑みを浮かべた妻の顔に私は少し救われた気がした。私の心の深い場所から喜びの感情がじわりとこみ上げた。
「良かった。うん、良かった! まだ、おかわりあるからな」
「朝からそんなに食べれませんよ。ただ・・・・・・」
「ただ? どうした?」
「少しだけお味噌が多いね」
「そうかそうか、そりゃ悪かった。そうだ、今度、日帰り旅行でも行かないか? 良い季節になってきたことだし」
「あら、旅行なんて嬉しいわね」
これまでの無機質な音だけが静寂に響いていた食卓には、ようやく温もりのある感情が生まれ、命を宿した言葉が舞った。
妻の目尻には深いしわが浮かび上がっている。私は未来を案じること、過去を悔やむことをやめた。今の私にできることを一つずつやっていこう、そう考えて前を向くことにした。