SOMPO認知症エッセイコンテスト

『お絵かきノートをひらくとき』廣田みのり

 祖母が何だかおかしい。同じハサミをいくつも買ってきたり、一日に何度もスーパーに行こうとしたりする。子どもながらに、祖母の几帳面さを知っている。家にある食材や道具の管理は完璧にこなす、主婦の鑑のような人だ。そんな祖母の行動としては、どうも不自然に思えて仕方がない。

 祖母が認知症だと判明したのは、私が小学五年生の頃。はじめは「また同じの買ってきたん。おばあさん、もしかして呆けてきたんちゃうん!」などと、母も私も楽観的に笑い飛ばしていたものだ。しかし、祖母のおかしな行動は日に日に増していく。何度も日付を聞いてきたり、遂にはスーパーでレジを通さずに商品を持ち帰ってきたりするまでになった。さすがにこれは…と病院に行ったところ、医師から祖母が認知症であることが告げられた。
「認知症って言っても、ちょっと物忘れが多くなるくらいやろ」小学生の私は認知症を軽く捉えていた。けれども現実はつらいもので。認知症が進むごとに祖母は「祖母」では無くなった。母の作った料理は受け入れないし、幼い子どものように暴れだす。祖母の介護で母はすっかり憔悴しきっており、私もピリピリとした家の雰囲気に疲れ、いつもどんよりとしたものが心を覆っていた。私と母が安らげるのは、祖母がデイサービスに行っているひとときだけだった。
 いつものように祖母をデイサービスに見送った後、母と私は家の片付けをすることになった。老人ホームで暮らすことになった祖母の荷造りを兼ねて、家中綺麗にしてしまおうという試みだ。せこせことタンスの整理をしていた時、あるノートが目に入った。私が小学校低学年の頃によく使っていたお絵かきノート。このお絵かきノートは、祖母が近所の商店で買ってくれたものだ。少しレトロな雰囲気が漂う表紙に一目惚れし、祖母に駄々をこねて買ってもらったのをよく憶えている。「懐かしいの出てきたで」母の元に駆け寄り、休憩がてらノートを開いてみることにした。見覚えがある自分のイラストが続く中で、明らかに異なる雰囲気の絵が目に入ってきた。
「これ、アンタが描いた絵か?」
「いや、多分おばあさんが描いたやつちゃうかな。」
 そこには、緑色のマジックで震えがちに描かれたヘンテコないきものがいた。
「これクマか?」「ウサギやろ」「いや、これは絶対クマや!」などと、いきもの当てゲームをしていたら、母も私も何故か笑いが止まらなくなった。こんなに大笑いしたのはいつ振りだろうか。祖母の病で辟易しているのに、祖母の描いた絵で大笑いするなんてヘンなの。

「アンタに頼まれて、描いてあげなと思ったんやろうな。お母さん、おばあさんが絵描いてる所なんか一回も見たことないで。文字も書かれへん人やからなあ…。絵はなんとかと思って描いたんかあ。」
 ひとしきり大笑いした後、ヘンテコないきものを眺めながら、母はどこかしんみりと話した。お絵かきノートの中に残る母の知らない祖母。字の読み書きができない祖母がペンを握ったということだけでも、母にとっては衝撃的なことだったという。

 うるさいおばあさん、わがままなおばあさん、あばれて迷惑なおばあさん。それは認知症の祖母に対する私の率直な気持ちだ。けれども、お絵かきノートのヘンテコないきものは、祖母の孫に対するたっぷりの慈しみから生まれた。そうだった。祖母はこういう人だった。
 祖母が認知症になって以来、私は祖母のひととなり、祖母と過ごしたこれまでのことをすっかり遠ざけてしまっていた。認知症は、色々なことを忘れさせてしまう。それは患者の記憶だけではない。患者を支える家族の中にある記憶をも蝕むのだ。患者のありのままを喚起できるモノがあった私たちは幸運だったのかもしれない。
 祖母は私が高校一年生の頃亡くなった。認知症と共に生きた日々を思い起こすと未だに胃がキリキリしだす。けれども私は次の瞬間あのお絵かきノートを頭の中で開いてみる。認知症の祖母も祖母。認知症ではない祖母も祖母。どの時期の祖母も記憶からこぼれ落ちないようにしなくっちゃ。そう唱えたあと、静かにノートを閉じるのだ。