今から15年前の夏休みの終わり、祖父が倒れて救急搬送された。直ぐに病室に行くと祖父は意識がなく、顔色の悪さを目の当たりにして、私は死を覚悟してしまった。翌日、祖父の意識が戻り、一斉に家族が話し掛けると、祖父は怯えてしまい叫び声を上げて錯乱状態になった。看護師から一過性の認知症かも知れないと言われ、かなり動揺してしまった。起きたら病室にいて混乱しているだけで認知症じゃないと、自分に言い聞かせたが、一度も名前を呼んでくれず、話していても意味のわからない言葉を発するだけだった。
数日後、妹が見舞いに来ると、やはり孫だとは分からずに、ただ見つめているだけだった。二人を残して母と病室を離れて戻って来ると、祖父と妹が声高らかに笑っていた。一体どうしたのと妹に聞くと「おじいちゃん私を部下だと勘違いしてるんだよね。」と、そして祖父は「判子貰えないなら今日は直帰しようか?」と笑顔で部下にサボりの提案をしていた。妹が「それ、バレたら明石さんのせいだって言い付けますからね!」とふざけて返すと、また大きな声で笑っていた。そんな祖父を見ていると「もう覚えていてくれなくても良いよ。おじいちゃんの思うように合わせてあげようよ。」と涙を抑えながら妹は私と母に提案した。悲しむより割り切ることを優先した妹に、笑顔で話し掛ける祖父は穏やかな表情だった。忘れちゃっても笑ってくれていたら良いかと、一同が気持ちを一つにしたとき、重かった心の閊えがストーンと、どこかに消えてしまった。それから祖父が他界するまでの三年間は、祖父に合わせてそれぞれが役を演じきり、混乱することなく笑って過ごせた。我儘なことを言い出したら「課長らしくないですね。」というと上司になり、やりたいことが出来なくて困っていると、「私も出来ないからやめようよ。」と友達になる。認知症を受け入れ、祖父が穏やかな気持ちでいられるなら幸せだと思いながら介護をしていた。祖父の笑顔は無邪気だった。
最期が近くなり、祖父に私が帰る際に「いづみ、ありがとうね。元気でね。」と握手してくれた時は「おじいちゃん、おじいちゃん。」と、孫に戻った時間がこのまま続いて欲しくて、手を握り泣き出してしまった。そんな私に「大きくなって泣いたら駄目だよ。」と、困った顔をして手の甲を優しく摩ってくれた。会いたかった祖父に会えた。嬉しかった。
その後、誤嚥で肺炎になり、話すことが出来なくなってしまい、旅立って逝きました
最後に孫として話せたのは、祖父に合わせ切ったご褒美だと今でも思う。認知症を受け入れてあげることを気付かれてくれた妹に感謝している。「いつも面白いこと言って、とぼけていたおじいちゃん可愛かったね。」と心から言える。祖父の命日に集まると、役者になる方が大変だったと語って笑っている。