「おじいちゃん、おばあちゃん、これ旅行のお土産」
車で20分くらいの、それなりに近い位置に住んでいる祖父母の家には、それなりに足を運ぶ。
とは言え、大学生となった今は日々バイトに勉学に、友だちづきあいに、と何かと忙しくて、月に一回も来る場所ではないのだけれど。しかしながら、ただ単純に忙しい、だけが、来なくなった理由ではない。
子どもの頃のように、「おじいちゃんとおばあちゃんの家に遊びに行く」が楽しみなことの上位に来なくなってしまったのだ。おじいちゃんとおばあちゃんが大好きな人であることに変わりはないのだけれど、それでもやっぱり、それなりに大人になった私には、広くなった私の世界において占める割合が、少なくなったんだろうと思う。それ自体は変わっていなくても、母体が大きくなった分、薄まると言うか。
ともかく、今でも私はおじいちゃんとおばあちゃんが好きではあるけれど、私の生活の大部分ではなくなってしまったってこと。反対に、広かったはずのおじいちゃんとおばあちゃんの世界は、だんだん狭まってきていて、多分昔よりももっと、二人の中で私の占める割合は大きくなっているんじゃないかって、思う。「もっと遊びにいらっしゃい」「ずいぶん顔を見せなかったなあ」なんて、来るたびに言われてしまうのだから。
なかなか世界は難しい。
心の需要と供給がそれぞれの側にとってバッチリ望ましい状態には、なりがたいものだ。恋愛だってそう。「全く同じくらい好き」なんて、どう考えたってあり得ない。と、分かっていたって悟りの境地に入れるわけもなく、無駄に彼氏に期待して、落ち込んで、勝手に腹立てて、結果、喧嘩になって、ついこの間終焉を迎えた。
そういうわけで、傷心の私を元気づけようと友達が旅行を計画してくれたので、旅行に行き、旅行に行ったので、お土産を買って、おじいちゃんとおばあちゃんに届けに来たというわけだ。
何か、物ではなく人、つまりは友達だとか恋人だとか、を無くしたとき、無性に祖父母に会いたくなるのは、そこに普遍性を感じているからかも知れなかった。
小難しく言ってみたけれど、要するに、おじいちゃんとおばあちゃんは永遠に私のおじいちゃんとおばあちゃんでいてくれるだろうってこと。
前は友達だった、とか、元彼、とは違うってこと。
「あら、しょうちゃんありがとう。旅行ってどこに行ってきたの?」
「東京だ」
私が答える前におじいちゃんが答えた。何で知ってるの、と言いかけたけど、やめた。渡したお土産の包装紙に、でかでかと「東京レーズンプリン」と書かれていたからだ。おじいちゃんの視線もそこに注がれていた。
私が言うはずだった「何で知ってるの」は、おばあちゃんが担ってくれた。
「その美味そうな土産に書いてあるだろ」
勝ち誇った顔で言うおじいちゃんに、おばあちゃんは「あら本当」、と柔らかな笑みを向けた。穏やかだ。ここで流れる時間はゆったりしているし、なんだか温かい。
時間は皆に平等だ。みたいな名言だか格言だかをどこかで聞いたことがあるような気がするけれど、時間がどこでも誰にでも平等な顔をしているとは思えない。今の私の日常と、おじいちゃんとおばあちゃんの前で流れる時間が同じものとは思えない。