それは翔太にとって、生まれて初めての一泊旅行であった。
数日前から彼は胸が高鳴るのを覚えていた。何度も地図を広げてはホテル周辺の街並みや部屋の窓からの眺望を想像し、既に翔太の旅は始まっていたのである。
父親の雄太は、仕事の都合で翔太の小さな頃から海外赴任を続けている。発展途上国で農業の指導や普及活動を行うのが彼の任務である。
「翔太は日本という恵まれた国に住んでるし、優しい母さんもいるけど、あちらの子らはそうじゃない」と言うように、熱心な仕事ぶりは日本へ帰る足を遠のかせた。たまに帰国するお盆や正月といった季節行事の時に、わざわざ一泊の家族旅行をするなどということはなかった。
母の翔子は「一体、誰の父親なんだか」と呆れた素振りを見せるが、心ではそんな雄太のことを誇りに思っている。父親と会えないことが寂しくないと言えば嘘になるが、翔太も母親と同じ思いだった。
そんな雄太が今回はいつもより長い期間の帰国をする。小学校最後の夏休みとも重なり、一泊の家族旅行をすることになったというわけだ。
「美味い魚が食べたいなぁ」と、いつも山にこもってばかりいる雄太の希望で、海のある街が旅行先に決まった。翔太としては、本当は魚より肉が良かったしテーマパークなどの遊べる場所が良かったけれど仕方ない。
出発の日は晴天に恵まれた。澄みきった青空に照りつける太陽は、恵まれ過ぎて暑いくらいである。翔太の中で一刻も早く海に飛び込みたい気持ちが強くこみ上げる。
翔太にとって電車で遠くへ出掛けるのは初めての体験で、食い入るようにして車窓に流れる景色を眺めていた。次々と景色が変わりゆく様子は彼にとって非常に興味深いものだった。
コンクリートに固められた街並みは次第に視界が開け、やがて田園風景へと移りゆく。川を越え少しずつ線路の周りに木々が増え始めると、今度は山の中を走っていくつものトンネルを抜けて行く。大小さまざまな街を通り過ぎ、少しずつ海へと近付いていく。
雄太はというと……隣の席で大きな口を開けて眠っている。口の周りにはお世辞にも綺麗とは言えない伸び放題の無精髭。翔太が久しぶりに間近で見る雄太の手は、ぶ厚くゴツゴツとして大きかった。
「翔太、ほら」
通路を挟んだ席に座る翔子が翔太の後ろを指差す。振り返った車窓には海が広がっていた。
「うわぁ、海だ」
「んっ?」
翔太の声に雄太は目を覚まし「もう海かぁ、きれいだなぁ」と目を擦りながら口にしたが、まだ景色を見ている様子はない。
電車は少しずつ速度を落とし、やがて目的地の駅に停車した。
電車を一歩降りるとほのかに潮の香りがする。改札を抜け、駅舎を出ると潮風が頬を撫でた。そこには、いつもの日常とは違う空気が満ち溢れていた。