スーツケース一つと大きなバッグ二つに納まった荷物を玄関に並べてスニーカーを履いていると、背後に修也が立つ気配がした。
一年間同棲しておいて私物がこれだけの量におさまったのは、女にしてはなかなか少ないんじゃないかと思う。すごく私らしい。加藤理沙という人間は、異常なほど物欲がないのだ。付き合っているあいだに修也からも何度も「何か欲しいものないの」と不安そうに訊かれた。服もアクセサリーもそんなに興味がないし、いくら買ってやると言われても欲しいものは特になかった。
靴を履き終えて振り向くと、ほんのりと寂しそうに眉を下げた顔の修也と目が合った。
「じゃ、行くね。お世話になりましたー」
「いやいや、こちらこそ。元気でな」
「そっちこそ、新しい彼女さんとお幸せに」
「まだ付き合ってもないけど。今からアプローチするから」
「じゃあ付き合えるように頑張って」
いつもの私たちのように軽口の応酬をしながら、そういえばと修也はメモを手渡してきた。
「引っ越し作業とかが落ち着いて気が向いたら、このアドレスに連絡して」
メモには田中玲という知らない人の名前と、電話番号、メールアドレスが書かれていた。
「誰これ?」
「高校時代の彼女」
「なんで私が修也の元カノさんに連絡するの?」
「さあ。玲がそうしろっていうからそうしてるだけ。あいつは何やってんのか俺には教えてくれないから詳しいことは知らん」
何言ってんだ、こいつ。意味がわからん。だけどそれ以上彼を問い詰めても何も出てこなさそうだから、とりあえず私はそのメモを財布の中に入れた。
ちょっと買い物にでも行くような軽さで手を振り合って、荷物とともに玄関の外に出る。ドアを閉めてから、ふうっと小さく息を吐いた。
こうして私は二年間付き合っていた彼氏と別れ、一人になった。
修也と別れた理由は、彼に他に好きな人ができたからだ。彼はちょっとしたことでもすぐに信じてしまうし、惚れっぽい。私と付き合い始めたのも、彼の仕事の愚痴を少し聞いてあげただけで優しい人だと認知されて好かれてしまったのがきっかけ。
放っておくといつか壺でも買わされるんじゃないかと心配にはなるものの、とにかく嘘や隠し事はしない正直な人だったなとは思う。何しろ、浮気する前にわざわざ「好きな人ができたから別れたい」と申告してくるのだから。
同棲する前に住んでいたマンションに再び契約して戻って来て一か月ほど経った頃、唐突に私はメモの存在を思い出した。引っ越してすぐに財布から抜き出し、ラックにしまってそのまま放置してしまっていたのだ。
正直、どういう目的でこの田中玲という人が私と連絡を取りたがっているのか想像がつかない。最古参の元カノが最新の元カノをいびるとか? いやー、それはなさそうだ。現在進行形で付き合っている彼女をいびるならともかく、別れてしまった女を呼び出してそんな意地悪をする意味がない。