「いえ、全然」
「では、お流しします」
お流し……。さまざまな物が流れる様子が私の脳裏に浮かぶ。私は察した。もはや、なすがままでいいと。
「はい、思いっきり流しちゃってください」
「え? 思いっきり、ですか?」
見えないが、何となく彼女の声は笑っているように聞こえた。
「はい、そうです。それで全然構いません。全然です」
彼女が私に八年間してきた作業の最後のプロセスになった。手鏡を私の後ろに持ってきた。後頭部や襟足が前の鏡に見える。
そうか、8年か。私もその間にだいぶ年を取った。髪の毛のボリュームが減り、白髪が目立つようになってきた。
小学3年生だった娘も高校生で来年には大学受験だ。それなのに部活、命! など妙な言葉を発し、泥だらけで帰宅する。何が楽しくてサッカーなどやる気になったのだろう。運動音痴の私にはさっぱり理解できない。女の子のくせになどと言おうものなら、物が飛んできそうな勢いで怒鳴る。でも初めて試合を見に行って、娘がゴールを決めた時には涙が出るほどうれしかった。
家内は、辞める辞めると愚痴を言いながら小学校の教師をずっと続けている。私には教師という職業は家内の天職だと思っている。食事中にいつも学校の話しを聞かされるが、生徒とともに家内もまだ成長しているように感じる時がある。
最初の頃は映画の話しがほとんどだったが、いつのまにか彼女に我が家の事を話すようになっていた。考えたら、会社の同僚や友人にも話していない事もあるかもしれない。いや、かなりあるはずだ。美容師さんという存在はかなり異なった距離感にある。私の場合、六週間ごとに、一時間から一時間半は同じ空間で時を過ごすことになる。友人ではないが、非常に友人に近い存在。希有な有り難い存在。八年も経てば、貴重な存在。
私は友人以外にはあまりプライベートをさらけ出したくないし、逆に相手の事も深く知ろうとは思わない。彼女とは、適度な距離感を持ちながら、八年の間、会話をし続けた。だから家内と離婚しそうになった時の事も、娘がイジメに合って登校拒否になった時の事も話してはいない。
ただ、そのような時も彼女は、私の微妙な心の揺れを察したのか、
「今日はお疲れのようですね?」と優しい言葉をささやいてくれた。
彼女には我が家の八年間の歴史が詰まっているのだ。
「こんな感じでよろしいでしょうか?」
私はすでに出来具合など見ることなどしない。彼女を信頼しきっているからだ。
「はい、ありがとうございます。いや、ありがとうございました、ですね」
「いいえ。こちらこそ。お世話になりました」
「私、あまり立ち入った事は聞かない主義ですので、ご結婚されるとは……」
鏡に写る彼女は笑顔だった。
「意外でした? 私、もう三十二です。お客様を担当したのが二十四でしたからもう八年です。老けましたねぇ」
彼女はあはは、と笑った。そうか三十二歳なのか。初めて知った。
「次の担当は、今日、ご挨拶させたかったのですが、あいにく休みなんです。そうそう、彼女も二十四歳だったと思います。たぶん、お客様とお話が合うと思います」
話しが合う? また先手を取られた。これは最初から目を閉じる訳にはいかないじゃないか。
「ちなみにその新しい担当の方は、やはり映画がお好きなんですか?」
「彼女ですか? んー、何だったかな。お笑いと、ゲーム、ですかね」
「お笑いとゲーム、ですか?」
「はい。とっても面白い子ですよ」
そりゃ、そうだろう。
また私には、新しい世界が広がりそうだ。