シャンプーで泣いた話なんて、珍しくもないと思うだろうか。断っておくがシャンプー液が目に染みたという話ではない。どう話しても信じてもらえるとは思えない不思議な話だ。生涯一度限りの利用、なんてどう考えてもあり得ない。
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怒りのエネルギーを放出させるがごとく、早足で歩いていた。はっはっはっ、呼吸があがる。額に汗が滲む。
「え、マジ? 藍里って意外に少女趣味じゃん」
そう言って笑った晴人。思い出すたびに顔が熱くなる。確かにレースのカフェカーテンも、ピンクのガラス玉が光るビーズ暖簾も、花柄のクッションも非の打ち所がないほど可愛い。女子っぽい。それを笑うなんて失礼じゃないか。
女の子が一人で帰るのは危ないから送っていくと言われて嬉しかった。それでついうっかり「お茶でも飲んでいく?」なんて言ってしまったのが失敗だった。マンションの入り口で冷たくサヨナラするべきだったのだ。
「ああ、バカ、バカ、バカ!」
自分を罵りながら角を曲がり人気の少ない路地を選んで歩く。派手な看板を掲げたクリーニング屋、小さなパン屋、花屋を通り過ぎ、しばらく歩くと美容室があった。
ガラスの窓越しに、色とりどりのボトルがずらりと並んでいるのが目に飛び込んできて足が止まった。
「きれい……」
やわらかな花びらを持つバラを思わせるピンク、しゃっきりとした香りが漂ってきそうなレモンイエロー、南の島を思わせるブルー、芽吹いたばかりの葉を思わせる明るいグリーン……。近寄ったついでに、ガラス窓に貼られた七色に光るシャボン玉のイラストに囲まれた貼り紙を読む。
「当店自慢のリラックスシャンプーを是非お試し下さい。ただし生涯一度限りのご利用となります」
生涯一度限り? どういう意味だろう。
いつもの自分ならその怪しさに笑ってその場を去ったに違いない。でも、その時の私は貼り紙をぼんやり眺めたまま「いくらぐらいなんだろう? シャンプーだけならそんなに高くはないよね」と考えてふらりと店の前に立っていた。すうとドアが開き、そのままボトルの並んだ棚へと進む。
「お好きなものをお選びください」
やわらかな声がした。
振り返って驚いた。
大きな目と長い睫毛、ふっくら丸い顔にピンク色の唇、ゆるやかなウェーブのかかった長い髪を一つに束ね、耳に小さなピアスが揺れているその女性は、私が思い描く「こうなりたい」と憧れる姿に限りなく近かったのだ。胸元にフリルがあり、腰に細いリボンがついたワンピースがよく似合っている。羨ましい。
奥二重の目、曲線より直線に近い体型、「男ならよかったのに!」と言われ続けて二十六年、自分が男なら間違いなく恋に落ちただろう。
「色によって何か違うんでしょうか」
そう問いかけた声は少しうわずっていたかもしれない。
「直感でお選びいただいたものが、お客様にとって必要な成分が含まれているものになるはずです」
妙なことを言うと思いながらカラフルな液体を眺める。菫を思わせる紫、夕暮れを溶かしこんだようなオレンジ。でもやっぱり。
「ピンクでお願いします」