振り向くと、男の人がいた。頭にハットをかぶり、Tシャツにジーンズとラフな格好だが、その笑った目尻のシワと鼻の下に蓄えられた白髪の髭でかなり年配の人だとわかった。
「店長、妹の鈴です」
姉が言った。
私は、店長と呼ばれるその人がアパートの保証人になってくれたり、私の参観日や運動会に姉にちゃんと休みを取るように言ってくれていたと聞いていたので「こんにちは、いつもありがとうございます」と心を込めてお辞儀をした。
「やめてよ鈴さん」店長は照れ臭そうに笑った。「僕は全然大したことしてないから。鈴さんは葵さんみたいな優しいお姉さんがいて幸せだねえ」
この店で店長はどの従業員も名前にさんを付けて呼ぶのだと聞いていたが、まさか自分の名前もさん付けで呼ばれるとは思いもしなかったので、一瞬面等食らったが、何だか大人の仲間入りをしたような気になって嬉しかった。
私が席に座ると、姉がケープをふわりとかけた。うちで髪を切るときはいつもお風呂場の小さな鏡だったから、目の前の、まるで眠れる森の美女の魔女が話しかけているような大きくて丸い鏡に心が踊った。
姉が私の肩まである髪を櫛でコーミングしながら、縮毛強制用の薬品をなじませてゆく。シャンプー台で液を洗い流し、ドライヤーで乾かしたあと「触ってみ」と姉が嬉嬉として言った。
私の髪は明らかに変わっていた。照明の光が髪に反射してそれは見た目からすぐにわかるほどだった。
恐る恐る自分の髪に触る。思わずあははと声が出た。笑ってしまうくらい、髪がつるつるだったからだ。そう、それはまるで魔法にでもかけられたみたいに。
「ね、来て良かったでしょ?」
魔法使い、じゃなくて姉が言った。
私は大きくうんと頷いた。
以来、美容室「シャルム」は私にとっての魔法の国となった。
高校に入学してからも月に一度、私は「シャルム」に通った。ただし、勉強を頑張るというのが条件だった。もしも成績が下がるようなことがあれば、美容室も縮毛強制もなしだと言われた私は勉強をかなり頑張った。姉の教育熱心ぶりは凄まじく「鈴にはちゃんと大学を出て、公務員になって安定した生活を送って欲しいの」といつも口癖のように言われた。それは中学を出てすぐに働いていた姉のささやかな望みであった。学校の三者面談で、担任からかなり有名な大学にも行けますよと言われた姉は、感激のあまりちょっと泣いていたほどだったから、今思えば、あの時が私たち姉妹の幸せの絶頂だったのではないかと思う。
そしてそれは突然やって来た。高校三年の二学期、授業中に職員室に呼び出された私は姉の死を知らされた。交通事故だった。雨でスリップした車がバス待ちをしていた列に突っ込み、その中にたまたま遅番出勤だった姉がいたのだ。
幸せの魔法はあっけなく解けてしまった。
それからの私はずっと深い霧の中を彷徨うみたいに生きている。
受験勉強なんて全く手につかなかったが、それまでの頑張りでそれなりの大学に入れた。奨学金と姉の事故の保険金で大学を無事に卒業し、私は姉が望んでいた通り市役所で働き始めた。美容室にはずっと行ってない。姉以外の人に髪を切られるのが嫌だったからだ。切らずに腰まで伸びた髪の毛は後ろで団子にすれば何とかまとまりはするが、同僚たちはそんな私のことを気味悪がって陰で魔女と呼んでいることを知っている。
魔女、か。もしも私が本当に魔女なら魔法を使ってあの日に戻り……。
ピンポン。