「えっ?」
思わずブローしていた手を止めて、町川君に聞き返していた。
「どうしました?」
爽やかな黒のショートヘアになった町川君が不思議そうに鏡越しに見つめてくる。彼が大学生になり僕の店に来たのはもう3年前のことだが、初めて聞いた話だ。
町川君が小学2年生の時。ブランコや滑り台、ベンチが一つ置いてあり、住宅街の中にあるような小さな公園があった。町川少年は、みんなで遊ぶのはそれほど得意ではなく、一人でいる方が気楽なタイプだったらしい。彼のブームは一貫してブランコであり、しばらく飽きなかったようだ。
僕は人見知りをしないから一人が気楽というのは分からなかったが、町川少年と同じタイプの人がこの公園にはもう一人いた。ベンチに座っている同じ歳くらいの女の子。彼女はいつも本を読んでいて、学校で見たことはなくたぶん違う学校の子だったと。
町川少年は気付けば、本の世界に入り込んでいる彼女の姿を目の中に収めていることが多くなっていった。だからと言って、一人が気楽タイプである町川少年に話し掛けるという選択肢は存在していないし、このままで良いと思っていたようだ。
しかし、そんな均衡ある日々を変えるのは一瞬であることが分かる。その日も町川少年はブランコに座り、彼女の姿を見つめていた。いつも通り彼女が読んでいた本をしまい、公園の出口に向かったその時、いつも通りじゃないことが起こった。彼女のカバンからタオル生地のハンカチが離れ、地面に触れた。
その瞬間、驚くほどすんなり町川少年の足は動き、地面に触れたままのハンカチを拾いあげ、離れていく彼女に向かい自身も驚くほどの声が出た。
「ねぇ!」
自分が呼ばれているか半信半疑な様子で振り返る彼女。そんな表情に構わず近くに寄って行った町川少年。
「落としたよ」
キョトンとした顔で見つめてくる目は大きく、夕陽に照らされキラキラと輝いて見えた。こんな間近で彼女の表情を見るのは初めてで、町川少年がとんでもない行動を起こしたことに気付いたのは彼女に眩しいくらいの笑顔でお礼を言われた瞬間だったらしい。
それからは、彼女の方から話し掛けてくれるようになった。一緒に遊び、一緒に好きな本の話もした。町川少年が本を読み始めたのはハンカチ事件の日かららしいが。
彼女に会えば彼女の笑顔が心いっぱいに広がり、小さな体全部を満たしてくれていたと。しかし、その日は突然やってきた――。
ブランコに座る町川少年。そこに彼女の姿はない。待っても待っても、彼女がもう一度公園に新しい本を持って現れることはなかった。恐らく転校でもしたのだろう。お別れは言えなかった。
それが町川君が話してくれた初恋の人の話。