美鈴さんの顔に安堵の色が広がっていく。今度はうれしいよりも申し訳なさで綾葉の心はいっぱいになっていた。
「あの、だから美鈴さんに対して何かあったってわけじゃ全然なくて。でも突然来なくなったらどうしたんだって思いますよね」
「あ、いやいや! そんなのお客さんの都合だってあるし、綾葉さんが気にしなくてもいいんです! 勝手にわたしがさみしく思っちゃってただけで」
あわてたように一気にしゃべってから、綾葉さんは照れたように笑った。
「でも今日は来てくれたんですね。うれしいです」
車の運転がそれほど好きではない綾葉だったが、それでも今日は時間をかけてまでこの美容室に来たかった。理由は色々ある。引っ越し先で通っていた美容室に行きづらかったのもその一つだ。
迷った挙句綾葉は話す決意をした。
「さっきシャンプーのときにすごく自然に『いい香りですね』って言えたんです」
「え? ああ、言ってくれましたね」
「引っ越し先で行っていた美容室では言えなくて。あの、そこってすごくヘアケア用品をすすめてくるとこで。別に断ればいいんですけど、毎回だとやっぱり心苦しくて」
言ってからやはり後悔の念に駆られる。これではただのけちくさい人ではないか。それにこの美容室だって色々と売っているし、綾葉もシャンプー等を買ったことがある。だけどあれは本当にほしくて買ったものだった。この言い方だとまた美鈴さんに余計な心配をかけてしまうのではないか。
「綾葉さんってすごく相手を思いやってくれますもんね」
綾葉の心配とは裏腹に美鈴さんはやわらかな微笑みを浮かべていた。
「ほら、冬にきたときに最近急に寒くなってきましたねって話したじゃないですか」
唐突に話題が変わったうえに覚えもなかったが、とりあえず綾葉は黙って話を促した。
「それでわたしが『首元寒そうじゃないですか』って言ったら綾葉さん、『首でてる服のがカットしやすいと思って』って言ってくれたじゃないですか。そういう気遣いをさらっとできるやさしい人ってわたし好きなんですよね」
綾葉は言葉を失った。そのくらいのことでこの人は自分を好きだと思ってくれたのか。綾葉にとってその程度はやって当然の気遣いであった。
「わたしもお客さんによってはシャンプーとかトリートメントとかおすすめしますよ。新商品でたら必ず教えてほしいっていう方もいますし。でも綾葉さんって本当に必要なものしかいらない人ですよね。逆に言えばそういうときは自分から聞いてくれるし」
そこで美鈴さんは一旦言葉を切った。シャキシャキッとはさみの音がして、足元に黒い髪の毛が落ちていく。
「だから綾葉さんの言葉うれしかったです。ここなら素直に話せるって思ってくれたんですよね」
そうなのだ。あんな一言ですら、あそこの美容室では言うのをためらった。何の気なしにほめてしまうと売り込みトークが炸裂する。自分から言い出したので余計に断りづらかった。
「美鈴さんこそ相手を思いやってくれてるじゃないですか」
「お客さん相手だったら当然ですよ」
そこからしばらく会話は途切れた。これが自分と美鈴さんの距離である。心地いい沈黙の中、綾葉の頭に浮かんだのは昨日送られてきた彼氏からのメッセージであった。
『もっとやさしい人だと思ってた』
返事はまだしていない。綾葉の中で、今後この人とどう接していけばいいのかがまとまっていないからだ。ただ気持ちはもうはっきりしているのだと思う。