自分自身はショートカットのほうが好きなのにわざわざ髪を伸ばしていたのは、彼が長い方が好きだと言ったからであった。だから「髪をばっさり切りたい」と思った時点で、もうこれからの方向性は決まっていたのだろう。
綾葉がわざわざこの美容室に来た一番の理由。切りたいと思ったその瞬間、思い浮かんだのは美鈴さんだった。美鈴さんに切ってほしかった。髪と。それと迷いを。
彼と知り合ったきっかけは会社の先輩の紹介だった。
ろくに話もよくしない内からアプローチがすごかった時点で違和感を覚えるべきだったのだ。今思い返すと、彼女という存在がほしかっただけなのだろう。
初対面での綾葉は、先輩の紹介だったのもあって彼の前でとても親切に振舞った。彼は綾葉にその姿勢のままでいることを望んだ。付き合い始めてからは一方的に綾葉が合わせる場面ばかりであった。
それは電話のみになった現状でことさら際立った。決めた時間を守らない。楽しい会話をしたい綾葉を無視してほとんど自分の仕事の苦労話にもっていく。そんな彼に、綾葉はやんわりと改善を促した。その返事が『もっとやさしい人だと思っていた』である。
ここに来るまでの綾葉は「なんで?」とか「こんなに我慢してきたのに?」と相手への怒りでいっぱいになっていた。
その怒りは「もっと話を聞かなければいけなかったのかも」という後悔とない混ぜになって罪悪感と共に増大していった。彼氏をきらいになると同時に自分をきらいになっていく感覚。
だけど美鈴さんは彼とは正反対の言葉をくれた。
シャキッと髪が切り落とされていくたびに、パチンと風船を針でさしたようにしぼんでいくものがあった。
頭に隙間ができていく。良い悪いではなく、純粋に原因を考えられるような余裕が。
「今日つかってくれたシャンプー買ってこうかなあ」
「あら、本当ですか?」
「はい。甘い香りに癒されたいので」
これから彼に本音を言って、それから多分振られるであろうから、とは口にしない。性格が合うのは分かっているけれど、あくまでも自分達は美容師とお客の関係だ。美鈴さんとはこの距離感がやっぱり落ち着くのだ。
彼氏とは正反対だ、と綾葉は苦笑いを浮かべそうになった。
お互いに性格なんてよく知らないまま付き合って、彼氏彼女という名称だけなら近しい間柄になった彼と自分。綾葉は『恋人』になるのに必死だった。思えばそれが間違いだったのだ。ただの言葉に自分をあてはめようとするなんて。
がんばればがんばるほど距離が縮まるどころか彼は遠ざかっていった。いや、きっと遠ざかっていたのは本来の綾葉自身だったのだ。
いつの間にか髪型はほぼ完成に向かっていた。足元に落ちている髪を見る。
さようなら、無駄だった努力達。今までお疲れさまでした。
「あの、美鈴さん」
お互いに踏み込みすぎず、だけど確かに感じるぬくもりがある美鈴さんと自分の間。ただ、もう少しだけ縮めたい思いが今の綾葉には芽生えていた。
「これからはこっちに来ます。またよろしくお願いします」
美鈴さんは手を止めてしっかりと頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします」
頭を上げた美鈴さんと目が合って、どちらともなく微笑み合った。
改めて鏡にうつった自分を見る。すっきりとした軽やかな髪型。
おかえり、いつもの自分。
ちょっと泣きそうで、だけど髪と同じ量だけ何かが抜けたような。そんな自分の表情がそこにはあった。