「柑橘系が好きっていう方には事前にかいでもらって確認しています。だけど綾葉さんは絶対好きだと思ってあえて聞かずにつかってみました」
ここの美容室はシャンプー中に顔に布をかけない。布が落ちそうになったほうが気になってしまうのでそれはいいのだが、今回ばかりは布で顔をおおいたくなった。
「まんまと好きって言っちゃいましたよ」
口からでたのはこんなおどけたような言葉だったが、美鈴さんはふふっと満足げに笑ってくれた。
シャンプーが終わって椅子に戻る。
「失礼します。こんにちは」
もう一人、女性が部屋に入ってきた。鏡越しに「こんにちは」と言いながら綾葉もその女性を見る。美鈴よりも若そうな子である。この美容室はブローをするときは毎回二人がかりなのだ。
バーッと勢いよく両サイドからドライヤーの風に吹きつけられる。
「綾葉さんですよね!」
まさかここで話しかけられるとは思わなかった。
「あ! はい、そうです!」
自然と綾葉の声もおおきくなる。この美容室でこんなにもおおきな声をだすのは初めてだった。美鈴さんとのやり取りは静かなものだし、カット中もそれほどおしゃべりはしない。お店の人とは距離をおきたい綾葉にとって、美鈴さんとの落ち着いたやり取りは心地良かった。ただ、今この子と大声で話している状況はこれはこれで愉快であった。
「よかったですね、美鈴さん! 気にしてましたもんね!」
「へ?」
思わず美鈴さんの方を見る。美鈴さんが何を言っているかは聞こえなかったが、口の形から「あっ、ちょっ、こら!」と言っているように見えた。
「予約はいったときめっちゃうれしそうでしたよ!」
ブローが終わりドライヤーを手早く片付けながら元気よくそう言った女性は、そのままの勢いで部屋から去っていった。
「あーもーなんで言っちゃうかな……」
美鈴さんは独り言のようにそう言って、鏡越しに綾葉と目を合わせた。
「すみません。あの、やっぱりどうしたんだろうと思ってまして。綾葉さん結構頻繁に来てくれてたし」
なんだ、と綾葉は思う。何も聞かれなかったので、それほど気にしてはいないと思っていた。だからこそさっきのシャンプーで驚いたのだ。自分の好みをちゃんと覚えてくれていて。驚いたと同時にうれしかった。にやけてしまっていないか心配になるほどに。
「あの、会社で支店の異動があって引っ越したんです。前はここの近くだったんですけど、今は車で一時間くらいかかるところで」
「あ、そうだったんですね」