新品としか思えない、フワフワの白いタオルを頭に巻かれて席に戻ると、ドライヤーが、砂漠に吹く熱い風のように、濡れた髪を乾かしていく。もちろん、砂漠には行ったことがないので、ただのイメージだ。ゴーゴーという風の音の中で、また思考の沼がせりあがってくる。仕事は悪いことばかりではない。接客は楽しいし、信頼してくれるお客さんもいる。仕事を通して、自分自身が成長しているのも感じる。それにもし、仕事をやめたとして、自分は次に何をしたい? 生活するにはお金も必要だ。転職したとして、仮にできたとして、いまの環境よりも悪くならないという保証は無い。支店長は人として大嫌いだが、そもそも不倫のことは自分には関係の無い話だし、仕事だと割り切れば、嫌味に耳をふさいで気にしないふりぐらいはできるだろう。その方が大人だろうか、器が大きいだろうか。
気づくと、目の前に香りのよいコーヒーが置かれていた。「どうぞ」と美容師が言う。最初に一度、コーヒーはブラックが好きだと伝えてから、ミルクも砂糖も添えられずに、シンプルに出てくるようになった。まったくえぐみのない、澄んだ味のコーヒーだ。きっとこだわりの豆でていねいに淹れているのだろう。ゆっくりとコーヒーを飲む。その間、髪には美容液が塗られ、スチームがあてられている。特別なトリートメントだ。これが終わると髪はピカピカになる。まるで新品に戻ったみたいに、ピカピカになる。
コーヒーを飲み終わる頃、ちょうどトリートメントも終わる。チャキ、チャキ、チャキという音がまた始まる。最後の仕上げに、細かいところをハサミで修正してくれているのだ。その頃にはもう、考えをめぐらせることに飽きてきている。悩んだところで、答えは出そうにない。支店長に仕返しをするのか、しないのか。戦うのか、気にしないふりをするのか。会社をやめるのか、やめないのか。思考の沼の表面には、ポコポコと色々な考えが泡のように浮かんでは、はじけて消えていく。
くるりと椅子が回されて、美容師が持つ手鏡に後頭部が映しだされる。完璧だ。自分の頭なのに、後光が差しているように見える。「大丈夫ですか」と美容師が言う。「大丈夫どころか、完璧です」と答える。同じやりとりが繰り返される度に、美容師が少し笑っているように見える。首からケープが外された。
お会計のカウンターに移動する。言われた金額をお財布から出す。おつりをトレーに置いて差し出しながら、美容師は言う。
「預言がありますが、お聞きになりますか」
「もちろん、お願いします」
私はバックから手帳を取り出して、美容師の言葉に耳をすます。
「大事なのは、その行動に愛があるかどうかです。それをする時、自分の心に愛があるかどうかを、問いかけてください」
私は黙って、預言を受け取る。
美容師は頭を下げ、私はドアベルの音を鳴らして美容院を出る。
帰り際にもらえる預言は、毎回一言だけだ。
最初は、言われた後に、その言葉の意味を質問せずにはいられなかったが、何を質問されても答えられないのだと美容師は困ったように言うだけだった。その代りに教えてくれたのは、どんな風にその預言がくるかということだ。どういうわけか、美容師が髪を切っていると、そのお客様に伝えたいと思う言葉がふいに空からおりてくるように、頭に浮かぶのだという。神さまから与えられているのか、どこから来るのかは分からないし、なぜ、その言葉がお客様に必要なのかも分からない。ただおりてきた言葉を預かって、お客様に伝えているだけだから、ということだそうだ。