

もう⼀度。息を整え、来た道を戻り、何⾷わぬ顔を何とか繕うこともできず、結局⼾惑いながら申し訳なさそうにガラスのドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
落ち着きと優しさが共存する低⾳だった。
ファミレスでパートのおばさんが乱発するものとは別の⾔葉に聞こえた。
くすんだ茶髪に⾸横へ跳ねた襟⾜、くしゃっとパーマに⽑先を散らした⾊
⽩の男は雑誌のモデルが⾶び出してきたようだ。
こんな⼤⼈になりたい。初⾒でそう思った。
クレヨンで描いた登場⼈物しか居なかったぼくの 14 年史に突然、ジュンさんはアクリル絵の具で現れた。
同性なのにこっちが少しドキドキしちゃう、でも話すのが楽しくて、話を聞いてもらいたくて、シャンプーの間も喋り続けて。
この美容室でジュンさんに初めてワックスの使い⽅を教わった。
夏休みの間だけ、こっそり髪を染めてもらった。
カットやカラーの合間に出てくる不思議な酸っぱい紅茶も、だんだん好きになった。
近所のイオンの話とか、あそこいつまで⼯事してんだとかどうでもいいこと…恋の話もした、⽚想いしてたマイちゃんも VOGUE に通ってて、ジュンさんにだけはその事話してたな。
「最近のドラマ観てる?ユウキが出てるやつ」
「あんなん観ないよ、え?ジュンさん観てんの?」
「なんかマイちゃん今ハマってんだって。ユウキが好きらしいよ」
「…マジ?マイちゃんが?」
こんな感じのやり取りがあったことは覚えてる。
僕はジュンさんの強い反対を押し切り、⼈気アイドルだったユウキの髪型にしてもらった。
当時ヤンキー⻘春ドラマで主役を演じるユウキの髪型の再現性は、中学の僕には⾄難の技だった。
僕が何度やってもエアリーな⽑流れと⽴ち上がりは⽣まれず、スネ夫の頭みたく⾓張って⽴ち上がってしまうのだ。
髪型をセットだけしてもらいにジュンさんの所へ駆け込み、何度もセットを教えてもらった。
顔の似てる似てないは別として、気付けば僕の頭部は、あのユウキを⼿に⼊れていた。
そして半年後、僕の努⼒も虚しくマイちゃんがサッカー部の先輩と付き合ったのを知った。
誰が誰と付き合ってるとか、そんな話もジュンさんは僕らより知っていたんだと思う。