そして、奥の椅子から腰を上げたその人もまた、少し老いたがあの頃のままだった。
「カットかい?」
「あっ、ええ」
「ごっつい荷物持ってぇ。そこに置いとき、ほら、椅子のとこに」
たくさんの本が並ぶ棚が、ちょうど待ち合いとの仕切りになっている。その隣の茶色い皮張りの椅子が私の特等席だった。少し汚れや傷が目立つこれも、きっと、あの時のままだ。私は思い出の椅子の隣に、この店には不釣り合いな赤いキャリーバッグを置いた。
「おねえちゃん、どないしましょ?」
おねえちゃん、などという久しく聞くことのなかった呼称に戸惑う私だが、七十五歳の真理子さんにとっては、おねえちゃんなのだろう。
そして、戸惑う理由がもう一つ。咄嗟に「ええ」とは言ったが、本当は髪を切るつもりなど全くなかったこと。次の電車までの時間潰しということもあるが、なんとなく、人生最後の帰省に真理子美容室に入ってみたかった。しかし、退屈そうにしていた真理子さんに「中を見たかっただけです」とは言えなかった。
「とりあえず、少し毛先を揃えてもらえますか?」
「そうねぇ……」
真理子さんが私の髪に触れる。
「せっかくやし、肩にかかるくらいにしてみたらどう?」
「えっ? そんなに短く?」
希望を聞いておきながら、その大胆なアドバイスに思わず笑いそうになった。
肩にかかるくらいとなれば、十センチはカットするということになる。どちらかと言えば、来月頃にはパーマをあてるつもりだった。
「似合うと思うけどねぇ」
「わかりました、お願いします」
まるで、魚屋さん勧められた旬の魚を買うかの如く私は応じた。
しかし、次の瞬間には、その決断を下したことに自問自答する。
そんなにカットしていいのか? いや、故郷に縁を切って、バッサリと髪も切る、なんてのもいいんじゃないか。どうせ、また伸びるんだし、と。
それにしても、七十五歳になる女性に私のヘアスタイルの運命を委ねても大丈夫だろうか。長年の経験に培われた技術があることは間違いないだろうが、それを活かせる身体能力が残っているか、失礼ながら心配だった。
そんな不安は拭いきれぬまま、カットクロスがかけられ、カットは開始された。
カチカチと耳元で小気味良い音が響く。鏡に映る真理子さんの顔は真剣そのものだった。お喋りだった真理子さんが、母の髪をカットしている時は無言になり、神経を集中させていたことを思い出した。それが、とても格好良かった。その姿を見た私は、将来の夢に美容師を思い描いたことが蘇る。しかし、鏡の前に座る今の私は、保険の営業をしている。
今から数十年前、若き母はこの景色を見ていた。少し視線を左に向ければ、ちょうど待ち合いの椅子が鏡に映って見える。小さな背丈には高すぎる椅子で、足をぶらぶらさせながら絵本を眺める幼き私の姿が映るような気がした。