不思議に思った俺の前で、彼女は俺を安心させるように顔を緩ませてくれる。
「私、美容師なんです。駅前のサロンに勤めてて……」
なんという偶然。
そして俺にとっての特大ラッキー。
今、ここで髪を洗えるなんて。
それでお言葉に甘えて彼女についていって、開店前ですけど特別に、と入れてもらって、髪を洗ってもらえたというわけだ。
会社は午前休を取った。急がなくていい。
「お兄さん、綺麗な髪、してますね」
彼女は豪快に笑ったあと、さらっと俺の髪をすくって言ってくれた。
どきんと違う意味で心臓が高鳴る。
頭を丸ごと洗われたあとだというのに今更だが。
「え、そ、そうですか? 高いシャンプーなんて使ってないですよ」
動揺してどもってしまった。本当に、使っているシャンプーなんてドラッグストアで売っているもの。毎日、洗ってはいるけれど。
「いえ、値段がすべてじゃないですよ。きっと髪に合ってるんでしょうね。あまりパサついてないし、生き生きしてます」
彼女はなんだか嬉しそうだった。
元気な髪に触れられて嬉しいんだろう。
俺はそう思っておいた。
「やー。そう言ってもらえても、フンなんてつけられたら台無しですよ」
茶化すように言った。
返ってきたのも茶化す言葉であった。
「でもいいんじゃないですか、ウンがつくっていいますよ」
くすくす、と笑い声がした気がする。ドライヤーの音で聞こえなかったけれど、そんな気配がした。
「ほんとですかね、それ。めっちゃ気分、落ちたんですけど」
俺はそう返す。
不思議だ、と思った。
気分が落ちたのなんて、ほんの三十分ほど前のこと。
今はそんな気分、すっかりなくなってしまった。まるで彼女のシャンプーで洗い流されてしまったよう。
「大丈夫ですよ。きっといいことあります」
カチッとドライヤーのスイッチを切って、彼女は俺の肩をぽんと叩いた。
「お疲れ様でした」
お疲れ様、なんて。
通りすがりの俺に、これほど良くしてくれた彼女のほうが、よっぽど『お疲れ様』である。
なのに俺は少々照れつつ、「ありがとうございます」なんて言うしかなかったのだった。
「じゃ、お仕事頑張ってくださいねぇ」
美容室の前で彼女と別れた。
彼女は「仕事じゃないんでいいですよ」なんて言ってくれたけれど、まさかそのまま甘えるわけにはいかない。
少々強引に「そんなわけにはいきません」と、美容室のシャンプーの料金を聞き出して、その金額を払った。それで店を出た。
「本当にありがとうございました」
ご丁寧にお見送りまでしてくれた彼女にもう一度、お礼を言って、俺は駅へと歩き出した。会社は駅を挟んで反対側なのだ。
気分は落ちたどころか、上がり切ってハイテンションだった。
髪は汚れが落ちたどころではない。家を出たときより綺麗になってしまったし、おまけに。
オシャレで、かわいらしくて、おまけにちょっと豪快なところもある、親しみやすい性格のあのひと。
こんな情けないきっかけとはいえ、知り合うことができてしまったのだ。
かわいらしい女性と知り合って、嬉しくならない男などいるはずがない。